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2015年07月21日

【知道中国 1260回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1260回】             一五・六・三十

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡1)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 尾崎は「店主答ふるに二十有餘元を以てす。清商價を二三にするの狡猾手段は余既に熟知す、因て二元にして可なるを告ぐ、店主怫然として怒て色あり、余冷笑して出て僅に數歩を行けば、店主忽ち顔色を和らげ、大聲疾呼余が歸り買はんことを請ふ、其虛喝乞狡獪毫も我が縁日の槖駝師に異ならず、一笑す可きのみ」と記すが、店主の不埒極まる振る舞いは相手が日本人だからではなく、じつは買い手が誰でも同じだろう。もちろん中国人であろうが。飽くまでも、我が半世紀ほどの細やかな“中国人体験”を振り返れば、だが。

 半世紀ほどの昔、台北の街角で、超小規模な“爆買”を経験をした時のことだ。40日前後の語学短期留学を切り上げる数日前、台北の繁華街の屋台で土産に適当な扇子を見つけた。1本が3元。そこで3元買おうとすると、オヤジは10元だという。おいおい、こっちが日本人学生だから甘くみてるのかい。日本式常識では、3本も買うのだから9元(=3元×3本)から値引くもの。ところがオヤジが応えるには、3元のものを一度に3本も買えるなら、10元払えるというのだ。なるほど、理屈に叶っている(?!)。そこで翌日、教室で先生に尋ねると、屋台のオヤジのいうことが正しい、と。

 やはり一端、日本を離れたら、日本の常識は通用しないと覚悟すべきということ。ところで“爆買”を目的とする昨今の中国人旅行者に対しは、台北の扇子屋台のオヤジを真似て吹っかけてみてはどうだろう。

 尾崎の上海行きより3ヶ月ほど遡った明治17(1884)年の5月末、新橋停車場を発ち横浜で乗船し、神戸を経て上海に向かった人物がいた。鹿門こと岡千仭(天保4=1833年〜大正3=1914年)である。以後、翌明治18(1885)年の4月半ばまで、じつに1年ほどの時間をかけて長江流域はもちろん、南下し香港にまで足を延ばし、日々の体験・感懐を克明に綴った『觀光紀游』を残している。しかもこれが全て漢文・・・イヤハヤ、である。

 先ずは仙台藩士で幕末から明治期を代表する漢学者で知られる岡の略歴だが、幕府が設けた最高学府である昌平黌出身の逸材で、尊王攘夷論の急先鋒の1人。門人には清川八郎、本間精一など。戊辰戦争に際しては欧州列藩同盟に参画した罪により、仙台藩によって投獄される。維新後は明治政府や東京府に勤務の後、旧仙台藩邸に私塾(綏猷堂)を開き、福本日南、尾崎紅葉、片山潜などを教育。福沢諭吉は友人の1人。晩年は大陸経綸を志し、李鴻章などとも交友を結ぶ。

 当時、清国が置かれていた情況――いや苦境というべきだろうが――は、小室、尾崎の項で言及しておいたので、必要な場合にのみ要点を記すに止めておく。ところで岡の旅行中に日本で起こった興味深い出来事を参考までに時系列に従って綴っておくと、

 明治17年6月に鹿鳴館で日本初のバザーが開催され、10月29日に自由党が解答処分を受け、2日後の10月31日に秩父事件が発生した。12月4日にはソウルで金玉均ら親日派がクーデターを断行(「甲申事変」)、12月24日には井上馨外務卿が朝鮮に乗り込んだ。

年が明けると、1月には井上が朝鮮に、2月には伊藤博文が特派全権大使として清国に差遣される。4月3日、伊藤は清国側全権の李鴻章との会見に臨み、天津条約について話し合い、その結果、同月18日には朝鮮問題に関する天津条約が伊藤と李の間で調印されている。この年の暮も押し詰まった12月22日、伊藤は初代総理大臣に就任し、初代内閣が発足した。因みに伊藤は宮内大臣を兼務。

 朝鮮問題を処理し、内閣制度を発足させ近代国家への道を歩み始める日本に対し、清国は清仏戦争の処理に窮するまま――日清両国が好対照の情況に在った最中、岡は「髪を束ね、天下の士に交わらん」として上海に旅立った・・・気宇壮大だが前途は多端。《QED》
posted by 渡邊 at 07:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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