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2015年07月22日

【知道中国 1261回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1261回】        一五・七・初二
 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡2)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 岡が綴る漢文を原文のまま、あるいは書き下し文の形にして引用するのも芸がない。そこで必要に応じて原文、書き下し文、意訳と分けて引用したいと思う。

 岡は「余不解中語」、つまり中国語会話ができないから筆談で過ごした。「馬童舟卒」は全員が文字を解さないから、基本的には「地名村名」は記していない。地名を記した場合もあるが、誤りがあるやもしれん。「中土失政弊俗」に言及した部分を、読者は「過甚」な批判と受け取るかもしれない。だが「異域人」である私は中国現地で見聞きしたことをそのまま記しただけであり、取り立てて「誹謗」する意図はない。いつの日にか心ある者が中国を訪問し、私の見解を「藥石之語」としてくれるかどうか――と、『觀光紀游』の冒頭に置かれた「例言」に岡は注記している。

 つまり『觀光紀游』には、後世の参考にして欲しいという岡の願いが込められているということだろう。であればこそ、その素志は大いに尊びたい。

 『觀光紀游』は、『航滬日記』、『蘇杭日記』(上下)、『滬上日記』、『燕京日記』(上下)、『滬上再記』、『粤南日記』(上中下)から構成されている。つまり岡は1年ほどを掛けて上海、蘇州、杭州、上海、北京、上海、広東(香港)と旅したわけだが、上海行きを綴った『航滬日記』は「明治十七年甲申五月廿九日」と書きだされている。それはそれで問題があろうはずもないが、その日付の下にゴ丁寧にも「光緒十年五月五日」と清朝年号が書き加えられているのが気になる。それも長旅の後に帰国し、駿河湾の海上から久々に富士山を眺め「富岳突出す、特(こと)に人意(こころ)に快(ここちよ)し」と綴る最後の日まで、一日も欠かさずに光緒紀年に拠る日付を記している。岡が、どのような意図・動機で清朝年号を使い続けたのかは不明だが、こういったこだわりに当時の漢学者の屈折した体質のようなものを感ずる。それは隅田川を西に越えて転居した際に、「これで唐土に一歩近づくことができた」と感涙に咽んだといわれる江戸の漢学者の心情に近いのかもしれない。

 おそらくそこに日本人の持つ中国観の最大の弱点、言い換えるなら『論語』以来の中国古典がデッチあげた中国と中国人の虚像を真に受けてしまったことに起因する、日本人の中国大誤解の根っこの部分が潜んでいるように思える。江戸末期から明治期を通じた時代を代表する漢学者としての岡の「中土」に対する揺れ動く心情――それまで学んだ中国古典から学び取った理想の「中土」に対し、「失政弊俗」に溢れた瀕死の「中土」の現実への「過甚」な批判――は、いずれ『觀光紀游』を読み進むうちに現れることだろう。
 かく予想したうえで、『觀光紀游』の先を急ぐこととする。

 明治17年5月29日、新橋を発ち横浜へ。関帝廟で多くの知友に拠る盛大な壮行会に臨んだ翌日、「長さ五十餘丈」の東京号に乗船する。雑踏する船内で、毎年来日する2人の中国人の筆商人から「中土(ちゅうごく)の風俗は日東(にほん)と変わりませんよ。ただ、日東のように万事が清潔というわけにはいきません」と伝えられる。確かに「中土」は圧倒的に不潔・不衛生だ。続いて岡は「我國、近く洋風を學び、競って外觀に事え、漸く本色を失う」と記した。鹿鳴館で日本初のバザーが開催されたのは明治17年6月。岡が上海に向けて横浜を船出した翌月のこと。上流社会では鹿鳴館を発信基地とし、さぞや欧化風俗が流行っていたことだろう。その軽佻浮薄ぶりに、元仙台藩士は耐えられなかったのか。

 あるいは欧化風俗に現を抜かし、日本人本来の姿を失おうとしている世情に対する憂いを抱きつつの船旅だったのかもしれない。上海入港は6月6日。岸壁では岸田吟香をはじめ、当時の日本を代表する広業洋行、三井洋行、大倉洋行の関係者に迎えられる。直ちに歓迎宴。「已にして酒の出で、諸賓と酌す。忽ちにして眩暈を覺え、吐くこと兩次」。《QED》
posted by 渡邊 at 08:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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