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2015年08月22日

【知道中国 1270回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡11)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1270回】        一五・七・廿

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡11)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 「中国人の基本的生活方式」について別の視点から少し考えてみたい。そこで『觀光紀游』から離れ、19世紀末期から20世紀初頭の満州に目を転じたい。

 満州の広野を南に流れ渤海湾に注ぐ遼河の河口に位置し、イギリスによって開港されることになった牛荘(後に営口)は、1860年代以降、満州を世界に結びつける重要な役割を担うようになった。1900年代に入ると満州経済は大豆三品(大豆・粕・油)を中心に急成長をみせ、世界市場の一角に地歩を築いたのだ。ドイツが大豆油を原料にマーガリンを製造するようになったことも相俟って、大豆製品は国際製品として世界市場に飛び出していった。かくて1906年における満州からの大豆三品の輸出量を100とするなら、4年後の1910年には732と7倍強に急増したのだ。清朝崩壊の前夜であった。

 満州で大豆を生産していた農民の大部分は、清朝が創建時から漢族の満州移住を禁じていた封禁政策を半ば無視するかのように新天地を求めて満州各地に入植した漢族であり、清朝末期に封禁が解かれたことを機に生きる道を求めて怒涛の如く満州に押し寄せた漢族だった。漢族による農村社会が活況を呈するようになれば、漢族商人は満州にもネットワークを広げる。だから、かつて日本人が「満人」と呼んでいた多く、いや大部分は実は漢族だったと考えられる。じつは満州は漢族によって殖民地化されていたのだ。

 清末における漢族の満州への大移動を「闖関東」と呼んだが、満州族の故地に定着し大豆栽培で生計をたてる漢族農民を支配し、彼らの収入の上前を撥ねていたのが「銭匪」「吏匪」「警匪」の「三匪」だった。

当時は満州全域で銀行制度が統一されていなかったことから、地方政府は官銀号と呼ばれる官営銀行を経営し独自の通貨を発行するだけでなく、徴税機関としての機能を持たせていた。一方、大豆産業の拡大に伴って民間には多くが地主の経営になる糧桟と呼ばれるニュー・ビジネスが生まれ、大豆を集荷・選別・貯蔵し加工・輸出業者に売り渡すだけでなく、農民に対する高利貸し業も営むようになった。

 かくて裏付けの怪しい通貨を発行する官銀号や関連金融機関幹部を銭匪と呼び、吏匪と称された役人、さらには警匪と呼ばれた警官とが手を組んで農民から富を絞り上げたという仕組みが動き出すことになる。銭匪は法令もないままに個別に通貨を発行した。なにせ吏匪と警匪とが仲間であるから、不利益を被った農民が訴えようがどうしようが、処置なし。経済政策も金融政策も商取引も何もあったものではない。農民は泣き寝入りするしかない、ということになる。抗議でもしようものなら、警匪の登場となってしまう。

 ここで2013年前半に中国経済、殊に地方経済の不安定要因として急浮上した「影の銀行(シャドー・バンク)」を思い起こしてもらいたい。当時、地方の怪しげな金融機関が高利回り金融商品として盛んに売りまくっていた「理財商品」など、さながら銭匪が刷りまくった根拠薄弱な貨幣といったところだろうか。「三匪」にとっての富の源泉が満洲では大豆であったのが、現在では不動産に代わっただけ。いずれ農民をダシにして、強欲な「三匪」の懐にアブク銭が滔々と流れこむカラクリは同じだろう。とはいえ農民も強欲ですが・・・。

 こう見て来ると、「影の銀行」とは中国における中央政府と地方政府の権力関係、地方政府の持つ権限の規模と範囲、地方における権力と人民の関係、支配と被支配の関係――いわば地方権力による富の強奪システムであり、満州で富を収奪した「三匪」の同類といえる。だから「影の銀行」は共産党独裁市場経済が生み出した“お粗末な金融システム”ではなく、「中国人の基本的生活方式」に鋳込まれた強欲さの発露と見做すべきだろう。

「三毒」に「三匪」・・・やはり「中国人の基本的生活方式」は牢固不変ですね。《QED》

posted by 渡邊 at 07:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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