h230102-0340-2.jpg

2015年08月26日

【知道中国 1271回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
chido_chugoku_hyoshiphoto.jpg
【知道中国 1271回】         一五・七・念二

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡12)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 あるいは共産党独裁体制÷伝統=「三匪」×「三毒」という数式も成り立つかもしれないところだ。

 ところで岡は中国でも相当に有名人であったらしく、たとえば上海到着から程なくした6月16日、アメリカの軍艦を訪問した際に名刺を差し出すと、「日本の学者、上海来遊と新聞が報じていましたが、先生のことでしたか」と挨拶されたと記している。ご本人が書いていることだから話半分といっておきたいところだが、ともかくも訪ねる先々で官僚や知識人が来訪し、様々な質問を試み、教えを乞うている。

 8月5日。来訪した三庠生を相手に、岡が「天地人の三才に通じるを儒というが、儒学の聖人やら六経に全く間違いはないとお考えかな」と問う。すると三庠生がお教え願いたい、と。そこで岡は「歴史を記した聖典の『春秋』には太陽が虧(か)けることを“日食”と記し蝦蟇が食べることによって起ると説いている。だが、そんなことは三歳の童子でも信じない。全く笑うしかないだろう。かくして日食を科学的に説明してやると、彼は愕然とした」と記す。

 かりに岡が綴るように三庠生が「愕然」としたなら、そのこと自体に愕然とせざるをえない。彼を中国知識人の平均像だった考えると、当時の中国における知識人一般は自然科学の領域における日食という現象ですら依然として儒教経典の教えを疑うことなく、蝦蟇が太陽を食べるからなどと信じていたということになる。そら恐ろしい限りだ。

 当時は清仏戦争の最中である。そこで当然、清仏戦争が話題となる。

 ――フランスと戦わなかったら、「中土の国威」は振わない。だが、戦ったなら、「百萬糜爛(コテンパンのまけいくさ)」だろう。聞くところでは李鴻章は和平派で、左宗棠や曾国藩などの諸将は主戦派だ。和戦のどちらに決するかは依然として不明だ。(私の考えに友人は)極めて心愉しまらざる風情だった(8月2日)――

 ――上海滞在中のフランス使節が「中土」が安南(ヴェトナム)に援兵を送ったことを抗議し、200万ポンドの賠償を要求した。だが曾国藩は拒絶した。安南では連戦連勝で、フランス兵に数千の死傷者が生じたなどと、新聞紙面には「矜伐(いさま)」しい文字が躍っている。だが、「余、其の不實なるを知る」(8月7日)――

「余、其の不實なるを知る」とは、岡もまた小室や尾崎と同じように、自らを糊塗し、失敗を隠蔽し、白を黒と言い包め、針小棒大を旨とする伝統的体質を見抜いていればこそ、中国側の報道、情報を信じなかったに違いない。思えば毛沢東の、周恩来の、ケ小平の「不實」に、日本はどれほどまでに振り回されたことか。悔やんでも悔やみきれない。

――フランスについて尋ねると、福州ではフランスの捕虜による乱暴狼藉に怒り戦端が開かれた。勝敗の行方は判らないと上海から知らせて来たと、ある友人が応えてくれた。そこで、おそらくそれは誤った報道だ。いま両国は大臣を派遣して事態の理非曲直を論じているところであり、一方的に戦端を開く正当な理由が見当たらないではないか。その知らせが本当なら、「曲(あやまり)は中土に在り」と岡が指摘した。すると友人は戦闘は2,3日の間にあったと語り、フランスの捕虜による無理無体を憤懣やるかたない風情で論難するばかりであった(8月8日)――

 ――フランスについて尋ねると、ある友人は「二十四史を通覧してみるに、夷狄との戦いが最も無策のように爲(おも)う」と語ってくれた(8月11日)――

 どうやら「中土」にも少しはモノの判った人物がいたようだが、岡の話に素直に耳を傾ける人物は少数派というべきで、やはり大多数は「聖人の道」を振り回すばかり。《QED》

posted by 渡邊 at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/162284180

この記事へのトラックバック
空き時間に気軽にできる副業です。 http://www.e-fukugyou.net/qcvfw/