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2016年02月08日

【知道中国 1346回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡87)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1346回】         一六・一・初三

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡87)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 岡は、「香港は東西二洋航路を扼し、上海漢口は長江の咽喉を占める。(22カ所を数える中国の対外開放港の中で)貿易の盛んなること、この三港を推し、貨を『中土』に輸さん」(4月2日)とも記している。

 上海、漢口、それに香港は共に長江以南。だが、その後の日本の関心は主に満州を軸に中国北方に移ることとなる。南方か北方か。もちろん日清、日露の両戦争にかかわる日本を取り巻く国際情勢の変化などを慎重に考慮する必要があろうが、かりに日本が岡の説くよう南方に張り巡らされた東西交易ネットワークに関心を払っていたなら、その後の日本の大陸政策は違った進路を辿ったのではなかろうか。であればこそ、岡の語る南方重視の考えが現実政治の中で“それなりの居場所”を得られなかった原因は何なのか。日本の対中政策の歴史を振り返った時、やはり突き詰めて考えたい課題ではある。

 4月10日、「宏荘にして?麗。日中諸艦の比に非ざる」「英國郵船」に乗船し、いよいよ香港を離れる。12日は快晴で順風。船は快速で水面を滑る。船中の様子を綴って、

 ――西洋人の男女は椅子にもたれ読書し、12,3歳の子供は男も女も手を繋いで上品に振舞っていて、少しも慌てた様子ではない。それに引き換え「東洋の男女、下室(かそうせんしつ)に雜座(うずくま)り困頓苦悶し、顔は死者の如し」。まさに天地雲泥の差だ。

 今回の旅行で多くの「名人巨公(ちょめいじんやじつりょくしゃ)」と面談したが、懼れることなど全くなかった。ただ西洋人の男女が「怒濤狂浪の中を逍遥し、少しもその擧止を變ぜざるに不覺にも慙赧(はじいる)ばかり」。(4月12日)――

18日、駿河・伊豆の山々の間に「突出する富岳」や伊豆の諸岬を左手に望見しながら浦賀・横須賀・横浜を経て「?車に乘りて都に入」ることとなる。かくして岡は、「呉江を遡り、江浙諸勝を覧し、燕京より居庸關八達嶺を究め、香港より廣東に入る。日と爲すに三百五十日、經るところ殆ど八九千里」の大旅行を閉じるが、『観光紀游』の最後を「以て少しく蓬桑夙志(ながねんのひがん)に報いるに足らん。唯、嶺南に癘毒に觸れ一病奄奄として僅かに一死を免れん。豈に名山に靈有り。余が三寸の不律(ふで)を妄りに弄び、中土千年の靈秘を漏泄(もら)さんや」と結んだ。

 前後350日余に及ぶ大旅行によって、漢学に志して以来の宿願の一端は達成できたが、広東の悪い気候に体調を崩し黄泉の世界への道を彷徨いかけた。あるいは名山には霊魂が宿っているとでもいうのか。大病は、「中土千年の靈秘(しんぴ)」を筆の赴く儘に書き連ね暴き出したが故の報いだろう――「中土千年の靈秘」を明らかにしたからこそ、「名山」の「靈」に祟られた。してやったり。呵呵大笑する岡の顔が目の前に浮かぶようだ。

 岡が最後に記した「中土千年の靈秘」を中国を中国たらしめているカラクリ、あるいは仕掛けと見做すなら、『観光紀游』のそこここで指摘される「中土千年の靈秘」は、共産党政権が新中国の建国と自画自賛する1949年から66年余りが過ぎた現在でも十分に説得的である。敢えて誤解を恐れずに言うなら、現在の日本で見られる中国批判のほぼ大概は、『観光紀游』で岡が指摘した「中土千年の靈秘」を超えることはない。そこでハタと思い到るのがお馴染み林語堂の「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ろうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)の“大予言”である。

 思えば岡の鋭い「三寸の不律」は、明治期の誰よりも的確に「中土」の虚実を書き留めた。だが、それが現実の対中政策に反映されたフシが見当らない・・・何故。《QED》
posted by 渡邊 at 08:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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