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2011年02月26日

一面の緑は、激動期の武士の転職

 東京から東名高速で名古屋へ向かう途中、一面、茶畑が広がる景色が目に入ってくる所がある。そこは、いわずと知れた「静岡茶」を生産する、牧の原台地で、日本一の生産を誇る。
静岡茶は、宇治茶とともに日本二大茶と呼ばれる。ところが、宇治茶が、鎌倉時代から生産されているのに対し、静岡茶が、これほどの規模で生産されるようになったのは、100年ほどと、歴史が浅く、その理由は、明治維新にある。

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黒船来航

 嘉永6年(1853年)ペリー率いるアメリカ海軍が浦賀に来航した。いわゆる「黒船来航」から、日本は、激動期が、はじまった。
ペリーは、米国大統領の国書を持ち、日本に開国を迫った。1年の猶予をもって、翌年、ペリーは、再来航し日米和親条約を締結。下田と函館を開港し、それぞれに総領事館を設置した。この頃、世界は欧米列強による植民地獲得競争の時代。米国領事のハリスは、清が、英・仏との戦争で敗北へ向かうことを理由に、英仏が、将来、日本へも不利な条約を迫る可能性を示唆し、先に米国との条約締結を切り出した。いわゆる「不平等条約」だ。
日本は、この条約に調印したが、同様の条約を英・仏・露・蘭の列強外交圧力に屈し、朝廷の勅許なくして井伊大老が調印した。政治的に最高権力者であった、大老井伊直弼の強権ぶりは凄まじく、吉田松陰も処刑されている。この強権に反発した浪士による、桜田門外の変が起き、井伊大老は暗殺される。しかし、その後も開国による貿易で、金銀比価の違いや、不平等条約等々、日本に不利益な状況が生じることに、攘夷思想が隆盛し異人斬りが横行。幕府批判の高まる中、坂下門外の変が起こる。

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大老井伊直弼

 失墜へ向かう幕府に追い討ちをかけるように、長州は、英・米・仏・蘭と交戦、薩摩も英と戦争。
藩が、外国へ戦争を仕掛けるというのも凄い話である。列強は、このような日本の綻びに入り込もうとした。
 さて歴史は、その後、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争、明治維新と突き進んだ。これを佐幕派と倒幕派で考えれば、徳川の敗北にみえるが、列強の侵略から、日本が生き残りをかけて、危機を乗り越えようとした点においては、最後の将軍、徳川慶喜は、他の志士以上の政治力を発揮したといえる。

 慶喜にとって政敵でもあった、井伊大老が調印した不平等条約は、列強は正規とするも、勅許がないことから、朝廷はこれを認めず、この捩れ状態を幕府の責任で解消するため、自らの切腹をも示唆し、朝廷への説得を試み、一応の勅許を得た。ある意味、売国にもみえるが、列強の恫喝の前に、戦える力を持たない日本では、止むを得ないこととも言える。幕府幕引き、敵前逃亡など惰弱なイメージが強い慶喜だが、京都では、長州軍に自ら切り込んでいる。
 第二次長州征伐において、薩長同盟となった状態で、14代将軍、徳川家茂が薨去したことにより、朝廷から休戦の詔勅を得、休戦協定を締結させた。慶喜は、朝廷からの勅命を得ることに長けていたようだ。
 薩摩が、英国との戦争後、英国が接近してきたが、慶喜は、フランスから資金援助を受け、製鉄所や造船所を建設し、軍制改革を行い、欧州留学を奨励した。この頃、西郷隆盛や大久保利通らが、慶喜を糾弾するため会談を設けたが、慶喜の能力に政治的に敗北。西郷・大久保らは、武力による倒幕を決めた。
 そこで、大政奉還となる。尊皇攘夷派は、慶喜は大政奉還を拒否するものと読んでいたが、慶喜自身が、明治天皇に政権を返上した。これにより、大久保たちは、先手を打たれたことになった。そこで、大久保・岩倉が次なる倒幕の手段として、クーデターを起こし、王政復古の大号令が発せられた。慶喜は、当初、衝突を避ける行動をとったが、薩摩藩の挑発に憲兵、京都を封鎖。鳥羽・伏見の戦いとなり、戊辰戦争がはじまった。この鳥羽・伏見の戦いで、不利になったとはいえ、十分な戦力を保持していたにも関わらず、慶喜は、兵を置き去りにして軍艦で江戸へ退却。更に慶喜に対する追討令が発せられ、朝敵となり、江戸城無血入城が行われ、武家政権は終焉となった。

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徳川慶喜

 英邁で知られる慶喜は、倒幕派との戦いに、勝てるだけの戦力があり、倒幕派より兵器や軍体制も近代化されつつあった。また、呼びかければ、馳せ参じる大名も全国で多数存在したうえで、このような行動をとったことに「これより、方法はなかった」と言ったという。その言葉の意味に、アジアが列強の植民地と化していく状況を知り、内戦を終わらせる必要があったと考えた・・・ともいわれる。また、朝敵とされた慶喜は、すぐさま謹慎する尊王思想である。
 現代では、明治維新の立役者として、坂本竜馬、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、大久保利通、西郷隆盛、等々、名を連ねるが、列強の登場により、長期に渡った鎖国の負の部分を背負いながら、日本の危機を近代化で乗り切ろうとした、徳川慶喜の存在は、欠かすことができない。
 仮に坂本竜馬が生きていれば、薩長同盟のように倒幕派と慶喜を結びつけるよう、努力したのでは、ないだろうか。

 話を戻すが、武家政治終焉に、徳川慶喜は家臣たちの職業として、牧の原台地の開拓をはじめた。(勝海舟の案とも言われる)開国による、お茶の輸出と、産業の成長を視野に入れていたとも言われる。彼らが開墾した茶畑は、地元農家に引き継がれ、今日、日本一の生産を誇るに至った。静岡茶は、激動の幕末から明治における、壮大な武士のトラバーユの結集だった。

タグ:静岡茶
posted by 渡邊 at 01:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史を眺めて
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