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2011年04月20日

目的が見えなくなった「小牧・長久手の戦い」

 日本の激動期、戦国時代。殊、終盤に入る頃は、二転三転と、日を追うごとに情勢が目まぐるしく変化した。例えば、戦国時代の終結にもっとも影響を与えた織田信長は、天正10年(1582年)3月11日に武田家を滅亡させたが、6月2日本能寺の変で横死した。実に3ヶ月にも満たない間の出来事である。ドラマの影響もあってか、その間はもっと長い印象だ。
 そして信長没後、激変に続く激変に、次の覇者となる豊臣秀吉と徳川家康という二大巨頭が直接戦うことになったのだが・・・

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柴田勝家

 時は、天正10年(1582年)本能寺の変により、羽柴秀吉は、主君の仇、明智光秀を討ち取り、織田家での発言力を増した。この頃、織田家臣は、それぞれが他国守護大名と同等の力を持っていた。
一方、信長と同盟関係にあった徳川家康は、武田領地を確保した。
翌年天正11年、柴田勝家と羽柴秀吉の織田家臣同士が激突(賤ヶ岳の戦い)した。この戦いで勝利した秀吉は、実質的な信長の継承者となり、大坂城を築城。天正12年、ないがしろにされた織田家後継者、織田信雄が、家康と同盟を組んで挙兵したことにより、名目、羽柴秀吉VS織田信雄。実質、羽柴秀吉VS徳川家康との戦いとなった。本能寺の変から2年弱のことだ。

 この戦いは、「小牧」「長久手」と、尾張の地名を指しているが、紀州、四国、北陸、関東の勢力が秀吉包囲網をつくり、紀州の根来衆・雑賀衆が、先兵として大坂城へ攻撃を仕掛けるという、構造的には、広範囲なものだった。

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豊臣秀吉

 天正12年3月13日、羽柴軍が犬山城を占拠。家康は15日、小牧城に入った。秀吉は、27日に犬山城入りし、その後、最前線となる犬山市楽田に着陣。双方、万全な体制を敷いたことから膠着状態となり、これを打破するために羽柴軍は、家康の本拠地、三河を攻める迂回作戦に出たが、先回りするかのように徳川軍が随所で勝利し、長久手での激戦の末、羽柴軍の主だった武将が戦死、羽柴軍は大敗した。その後、秀吉は、小牧山を攻めるも敗退。一方、北陸では、共に信長に仕えた佐々成政と前田利家が激突し、前田利家が佐々成政を退けた。この後も散発的な戦闘は起きるが、戦況は、家康に有利な方向へ展開した。

 しかし、元々は、羽柴秀吉と織田信雄の戦いであったことから、秀吉は、信雄に心理的な圧力をかけ、これが功を為し信雄は単独講和にて戦線離脱。ここで家康は、大義名分を失い、戦闘は終結。6ヶ月の間、相応の動員と犠牲者を出しながらも広範囲かつ散漫な印象の戦役は、あっけない幕切れとなった。

 織田信雄の戦線離脱で、辛酸を舐める結果となったのは、紀州・雑賀衆や根来衆、四国・長宗我部元親、そして佐々成政。紀州・四国勢は孤立し秀吉に制圧された。打倒秀吉を願う佐々成政は、必死に家康を説得するも耳を傾けられなかった。


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三方が原敗走後、戒めとして描いた若き日の徳川家康

 歴史だからこそ、結果が見えているが、あの激動期の中にあって、合戦として歯切れの悪い、小牧・長久手の戦いは、領地を奪取し覇権を競う戦国時代は既に去り、政権が確定する課程における、武力行使を伴った政争であったことが読み取れる。
織田信長は明智光秀という家臣によって討たれたが、光秀は、すぐさま、秀吉に討たれ、次は、柴田勝家と秀吉が争った。この織田家の状態を好機とみて、攻め入る武将がいても不思議ではなかったが、全国の武将は、既に信長によって戦意を削がれており、天下取りは、信長没後も、信長と行動を共にした勢力図で展開された。
小牧・長久手の戦いの後、関白となり豊臣政権を確立した秀吉にとって、唯一、屈服させられなかった家康を臣従させる必要があった。そこで秀吉は、織田信雄をもちいて家康の懐柔にあたらせ、次に実の妹を正室として差し出し、更には、実母まで送り出し、最後には、秀吉本人が夜に紛れて密かに家康を訪ねた。

 天正14年(1586年)、家康は、秀吉の家臣となることを表明した。この形振り構わぬ秀吉の説得方法に、野戦の達人、家康も戦い方にさぞ困ったであろう。母親まで差し出す秀吉に、これに応えない家康は、次第に世間から評価を落とす気運があったのだろうが、反面、軍事力で負けていない家康を示すものでもあった。
秀吉と家康が、駆け引き材料を図る戦だったともいえ、これで、小牧・長久手の戦いが本当の意味で終結したともいえる。
この戦は、豊臣秀吉臣下になりながら、特別待遇となった徳川家康が、江戸開府の道筋をつくった日本の歴史上、重要なできごとではあるのだが、本能寺の変から4年、開戦の張本人である織田信雄の戦線離脱、奇妙な戦い方による秀吉と家康の決着は、戦場を駆け巡った武人にとって、心情いかなるものであったのだろう。

更に後、慶長5年(1600年)、徳川家康の覇権が決定的となった関が原の合戦が起きた。
小牧・長久手の戦いで孤立し秀吉より紀州征伐を受け、敗走した根来衆は、15年の歳月を経て、犬山城主で知られる成瀬正成とともに東軍として参加し、活躍した。可能なら、彼らに小牧・長久手の戦いの顛末ついての感想をインタビューしてみたいものだ。


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藤堂高虎


【根来組の一人に聞いた】慶長5年9月15日関が原

 あん時はよォ、俺たちゃ、折角、徳川の旦那に加勢してやったのに、何だ、とっとと、止めちやがって。あの後、サルの旦那は、藤堂高虎というトンデモねえ野郎を寄こしやがって、雑賀衆がやられちまった。
 しかも、徳川の旦那とサルの旦那の手打ち、あんなんじゃ、敵方の池田親子も浮かばれめェよ。武士は戦って決めるもんだろ?結局、徳川の旦那に世話ァなってるんで言えんかったけど、ず〜っとそう思ってた。でも、徳川の旦那は、世間で言われるように狸爺だねェ。今日まで生きてきた甲斐があったってもんだよ。藤堂の野郎、信用できねえが恨んじゃいねえ。先に逝った連中も、これで浮かばれるってもんだ!
 そういや、俺、変な夢みてな、何か、砂ばっかのところで、加駄費て野郎をやっつけてやろうと思ったが、どっちも見たことねえ、服装と武器を持ってたが、あっちの武器はやたらと強エ〜んだ。
そこで、南蛮の連中が、助っ人するってことで、はじめのうち、鉄の鳥で沢山の雷玉みたいなものを落としてったんだが、途中から、味方するってわりに、俺達のところへ、飛ばしてきたぞ!「あ、間違えた」だってよ。それから来ねえんだ。そのうちに加駄費て野郎は、馬のない大八車みたいなものに乗って手を振ってやがった。変な夢だったなあ。

 なんてことは、ないわな・・・。




AFPBB News>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
結局、NATOは、どうしたいんだ。炊きつけただけに見えるぞ。

タグ:戦国時代
posted by 渡邊 at 17:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史を眺めて
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