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2012年11月10日

塚本先生11月下旬世評――歴史と伝統に光る日本へ――

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歴史と伝統に光る日本へ 平成二十四年十一月下旬 塚本三郎

韓国人を自己批判した(朴元大統領)
 国内の政治家と国民たちは、自派と私的利益の追求にのみ汲々としたあげく、民族全体は常に放置されてきたのではないか。
 個人間の謀略、中傷が、私利私欲の追求から出ている。派閥争いと、私欲に血眼になって騒ぎながら、民族の共同利益に対しては、どうしてこんなに冷淡なのか、理解できない。
 生きている執権者の銅像は莫大な金額で建てられ、過去の志士や義士の墓前には、石碑一つ見るべきものがなかった。――このような歪んだ民族性、民族愛の枯渇から、どうして健全な良識を備えた民族性の成長が期待できようか。
 わが社会は、いずれが正当で、いずれが不当であるかの、「判ずべき一つの基準」がたっていないことは事実である。何が健全であるかの客観的尺度もない。尺度がないから、自然に自分と自分の利益に合致するものが正しく、合法的であり、自分と自派に不利であれば、それは誤っており、不法であると判断するのが実情である。

 今日、わが民族は余りにも自己利益のみに目がくらみ、あらゆる詐欺、欺瞞、不法、不正などの手段に魅惑されている。偽造商品、模造品などの生産や氾濫も、ひっきょう、「奉仕意識の欠如」からきているといわねばならない。

 価値判断の基準が自己の判断力とか、自民族の文化にあるのではなく「中国でどうしているか?」に照応してみて、受動的に決定してしまい、「事大依存的習性」をつくりあげたのである。――とくに、わが民族には、他人を見下げ、賤しめる傾向がある。
 いわば一種の差別意識、特殊意識がある。だがその反面韓国人はすべて悲しみ、哀傷、悲劇を好むという。それは「なるようになれ」「仕方がないじゃないか」といった「消極的な諦念」に堕している。
 それは「忍従」より劣る奴隷的「屈従」の固まりといおうか。したがって逞しく立ち向かっていこうとする、「西欧的悲劇意識」が韓国にはなく、軟弱な涙っぽい同情があるだけである。名誉をかけ、責任を完うするために死ぬのではない。

 嘘をいい、他人を偽り、人の金を搾取するのはすべて「名誉感の欠如」と関係が深い。
 わが民衆には名誉意識が薄弱であり、したがって法律上の「名誉毀損罪」には実感がない。ただ「家族意識、種族意識」があるだけだ。韓国史の主人公は眠っていた。
 国史は民族の鏡であり灯火である。過去のわれわれは「歴史を見る眼」をもてなかった。民族の進むべき道を展望することもできなかった。いまや、われわれは「韓国史観」を形成すべき時期がきたのである。韓国民族の主体性を把握し、韓国史も精神的支柱を回復して、外来文化輸入のための、「批判的受入れ態勢」を確立すべきである。
(WiLL十二月号より)要点を抜粋 
 朴正熙・韓国第五〜九代大統領(一九六三〜七九年)。一九六五年、日本と国交を回復(日韓基本条約)。日本との援助によって「漢江の奇跡」を実現した。

日本には神道と仏教文化が在る

 朝鮮半島の人達と比べ、わが日本民族は、誠実にして協調的であるだけでなく、思いやりと、名誉を重んじる伝統を保持している。朝鮮半島の人達と人種的には殆ど差異はないとみる。それなのにどうしてその差が顕著なのか。
 その根本には、日本では、万世一系の、誇るべき天皇陛下が存在されておられる。

 天皇は神仏を尊崇する祭主として、国民の中心に鎮座されていることだと信ずる。
 天皇陛下の地位は、政治権力ではなく、神と日本民族の権威としての地位を、自らその威厳を保持されている。政治権力によっては、犯すべからざる天意を保持されてあられる。
 日本は四囲を海によって隔てられて、明治開国まで、他民族との交流は在っても、文化的影響を受けても、武力的な脅威は少なかった。時たま受けた元寇の役などは、天皇家を中心にして防御出来た。――勿論その土台として、聖徳太子以来の、日本人の魂を築き、磨き上げてきた、「仏教文化」とも呼ぶべき基礎が在った。

 日本には在来の宗教として、神道が厳然として存在していた。
 神道の教義こそ、四季折々に受ける大自然の変化、それを天の恵と受け止める民族性そのものが、宗教として町々をささえ、それが神々を祀る神社として、各町民の心の拠り所として来た。――我々日本人の生活の根本は、大自然を相手とする農業が基本であった。
 そのことは、春夏秋冬の下で、耕作の実りを待つ「因縁果報」こそ神の恵みとして、各家庭から街々に、そして、国家の伝統として伝承されて来た。
 勿論、その天恵こそ、民の誠の働きによる結果として、因を蒔き縁を実りと信じて来た。

 そこへ、異端の宗教である仏教が伝来した。勿論、いっときは、奇異の眼で迎えられたとしても、その教義、経典は、日本の神道とは根本では合一している。
 神道が、大自然の恵みを、神のワザと受け止めての作法であるのに、その作法を、見究めた具体的論法をもって説得する「因果応報」の仏教経典の信仰こそ、神道と仏教が、双方相一致するものと、「生活体験」を通じて、日本社会に受け容れられた。

 世界の歴史は、闘争の歴史であり、その大半は「宗教観の対立」と紛争である。しかし日本のみが、神道と仏教が違和感なく、融合とは云わないまでも、両立し、並立して共存できているのは、その大自然観、即ち「天恵信仰の合一」に在るとみる。
 既に鎌倉時代は、仏教の各宗派が集団化し、日本社会を組織化し、今日で云う「政党的権威」と権力の土台を形成して、鎌倉幕府を支えて来たことを歴史が物語っている。
 而もその「宗派間の相違」は、異教ではなく、仏教経典に基づいた思想と、尊崇の単なる解釈の相違のみであったから、相対立するのではなく、「強調的競争」と云うべきか。

 時代の進化は、幕末に至って明治開国を余儀なくされた。その大変動の時代もまた、江戸時代の「町民文化」と民族性が、国際協調の新しき時代に対応し活用されて来た。
 古き階級的差別が、その部署を超越して、一致協調の実を挙げたのが明治維新である。
 維新の指導者は、国民統治の根本に「五箇条の御誓文」、そして「教育勅語」の制定を「政治と教育の指針」として建議して、国論を集体制化して今日に引き継がれた。
 人種として外見に差異のない朝鮮半島と日本が、全く異質の歴史を築いて来た根底には、日本の輝かしい「歴史と伝統の光」が大和民族の誇りとして今日を迎えている。
 だが、その伝統の光が、敗戦後、教育勅語の廃止と共に消されつつあることを憂うる。 
 特に近年、政界の乱れが、独善的風潮を招いている。長年日本を指導して来た自民党の指導力が劣化し、加えて、民主党政権に引き継がれて以来、特に、独りよがりな野田首相の政治姿勢が、皮肉にも、自身の政治運営を、ますます窮地に追い込んでいる。

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言うだけ番長の民主党

 一国の総理大臣には、申すまでもなく政治家を統率する能力と信用力が不可欠である。政治は独りでは何も出来ない。まして民主政治は多数決が基本である。
 野田佳彦総理の演説を聞いて、日本国家としての、直面する政治課題と、その要点は、失礼ながら、知り尽くしておられると、一応は耳を傾ける。
 官僚やマスコミが、具申し、要望していることを、承知しているからであろう。
 演説の焦点は外れていない。それなのに民主党内の各議員は、選挙を控えて逃げ腰である。月日と共に、それぞれの、維新と名の付く各政党に、ボロボロとクラガエしつつある。

 国家の為に進むべき理想と目標を定めてみても、野田首相では実行力が絶無と、身内の議員にすら、見捨てられつつある。
 内外の時代変化の波は恐ろしい。その寒々とした、与党民主党への寒波は、野田佳彦氏の姿勢が招いたと云うよりも、鳩山由紀夫、菅直人前首相二人の無定見が、その寒波を作り国民から見捨てられていたことが土台に在ると言うべきか。支持率一〇%台と。
 その上に建てられたボロ家だから、如何なる構築物、即ち政策を並べ、そして飾り付けても、国民は信用しない。加えて、無責任なマスコミのアゲアシトリに遭遇して、首相の演説と答弁は、日と共に崩れゆく夢物語としてより受け取られない。

 日本政治の弱体化を眼前にすれば、近隣の、ロシア、朝鮮半島、中国等の恐るべき野心が燃え盛ることもまた止むを得なかろう。
 善意に解釈して、私は「釈迦に提婆」と彼の国を呼び、日本再生への脅威とみる。悪役を近隣の三国が買っている。「日本よ目覚めよ」との激励と受け止めるべきだ。
 これ程に不評を重ねた民主党の野田政権は、いつまで、続けるつもりなのか。
 鳩山由紀夫初代政権の折、前原誠司氏が、思い付きに突然「ヤンバダムの中止」を発言し、やがて取り消しとなったことによって、「言うだけ番長」の流行語を創った。その後、幾度となく彼は、無責任にして、世人が耳を傾ける軽薄の発言を重ねている。
 民主政治は世論中心の政治であり、その世論を大きく支配するのは、読者への迎合中心のマスコミである。

 さすれば、可能か、不可能かを問う前に、無定見に、耳さわりの良い、マスコミ向けの諸政策を、党代表の首相さえも数々と打ち上げた。
 その悪習が、次々と受け継がれた民主党首脳の発言も、最近の野田首相の発言や答弁も、綺麗に官僚の作文を練り重ねた、「言うだけ番長」の典型と化している。
 一体、「政治主導」を掲げた民主党の公約はどうなったのか。
 そのことが今日では、日本の政治そのものを極端に劣化させ、政界自体を、不信のどん底へと突き落としつつある。野田首相の議会答弁も、記者会見も、彼の言語そのものが、余りにも軽薄化されている。それでも「言うだけ番長」の民主党政権を続ける気か。
 改めて論ずるまでもなく、選挙時に党が掲げる公約こそ、公党の政治生命である。

 耳当りの良い理念と政策を訴えて、幸いにも政権を手に収めた民主党が、全く「公約無視の政治」を行うこと既に三年。その結果、野党は勿論、すべてのマスコミも、政権担当の民主党に、「公約違反を重ねる党は、速やかに解散して信を問え」と叫び続けている。
 既に参議院では不信任の「問責決議」が為されている。それでも馬耳東風である。
 解散権は総理大臣の特権であると自負している。これ程に民意を無視して恥じない政権は、戦後珍しい。 恥を知らない人間に政治を委ねた、有権者の短慮と不運を嘆く。
posted by 渡邊 at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 塚本先生小論集
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