【吉澤正大氏プロフィール】資料より
大正7年、長野県生まれ。
東京高等商船学校卒業、海軍予備少尉に任官、終戦まで海軍第一線で勤務(戦艦扶桑、駆逐艦響、軽巡五十鈴に乗艦)。次いで海軍砲術学校教官にて終戦に至る。この間、キスカ撤収「ケ号作戦」、マリアナ沖海戦などに参戦。昭和19年に海軍大尉に進級。1950年に海上保安庁に入庁。
朝鮮動乱下、米軍指揮下に編入され特別任務を果たす。2年後、農林水産省水産庁に出向し、水産大学校の練習船の機関長として勤務。1971年に水産大学校機関学科教授となる。1982年に退官後、国際協力事業団の派遣で東南アジア漁業開発センターに4年間タイのバンコクに勤務。92年に勲三等旭日中授章。92歳を超えても今なお、正しい日本の姿を問い続けている。
【背景】
真珠湾攻撃の翌年、昭和17年(1942)6月、日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として、アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略したが、ミッドウェー海戦で大敗し、制海・空権を失った。
翌年、昭和18年(1943)5月、アッツ島にて米軍との間で、激しい戦闘が行われ、日本軍は、玉砕となり、日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された。
そのキスカ島に取り残された、日本軍撤収作戦「ケ号作戦」が、この日の主題である。
【吉澤正大氏執筆資料から】
1、 一期作戦は、昭和18年6月発動、当時米軍は制海権、制空権を完全に掌握し、作戦は潜水艦によってのみ可能と考えられた。しかし潜水艦もレーダーに捕捉され、10艦が轟沈され、この作戦も打ち切られた。
2、 のため水上艦艇による「一回一挙」作戦となり、成功目算は、限りなく遠のいた。上層司令部(大本営、連合艦隊、第五艦隊など)が何を考えていたのか、おいおいわかってきた。成功の目算はなし、ともかくやってみるだけ、つまりその中で「どう動けば海軍の面目は立つのか」が主題となった(アッツ島の守備隊の玉砕は陸軍が主流だった)。この中で、木村昌福司令官は「俺は全員連れて帰る」の発想を捨てていなかったと思われる。第一次作戦は昭和18年7月7日発動され、航法は徹底した「唖、聾、盲航法」であった。かくして15日、0200地点について、キスカ湾突入のチャンスを考え、五回の往復を繰り返し、だがチャンスなしと考えられた。各艦からは「突入されたし」の具申があったが、司令官は沈思黙考の果て、0900「帰るぞ」と決意を示された。この決意は、ともかく関係者全員の運命を決定づけた一瞬であったが、五艦隊司令部は「大不満」の渦となった。特に参謀長の大和田少尉は「キスカの入り口まで行って不突入とは何事だ」と怒りをあらわにして「臆病者」呼ばわりした。大本営海軍部でも木村更迭の案件がでたが、河瀬司令長官の計らいでそれは見送られた。しかし、いろいろと条件がつけられた。「河瀬長官は突入地点まで全軍を直接指揮せよ」と、第二次出発は阿武隈帰投から四日後に再開された。Z日は27日と決められ、さらに時間単位の変更が追加された。
濃霧の中、阿武隈と国後が衝突し、そのあおりを受けて若葉と初霜が衝突した。阿武隈は応急修理して四時間の遅れを生じ、初霜はかろうじて基地に帰った。後日考えてみると、これらの時間の遅れは部隊のキスカ突入に大きく作用していたことが分かる。それが吉と出るか凶と出るか、神のみぞ知るところだ。
3、 すべての作戦が終了した時は、五艦隊司令長官は山本五十六大将と永野修身大将宛に次の報告文を打電した。(しかし、この報告には大きな誤認がある。それについては後述する。)
ケ号作戦概略
8月1日、多摩を率いて水雷部隊とともに率いて水雷部隊とともに7月22日幌延海峡を出撃。29日0700キスカ南西方50カイリに達し、水雷部隊を分進、突入せしむ。水雷部隊は1340鳴神島に進入、所在陸海軍守備部隊を収容。8月1日0530幌延海峡に帰着。ここにケ号作戦を完了せり。撤収人員海軍2518名、陸軍2669名、遺骨30柱。霧中待機中、軽微なる触衝事故発生せるほか艦艇の損傷なし。思うにこの作戦が濃霧のため敵機の活動全く封殺せられ、敵艦隊の哨戒また不備なる好機に乗じ得たるは、まったく天佑神助(てんゆうしんじょ)奇跡によるものにして、感激のほかなし。このようにしてケ号作戦は完結した。
ケ号作戦にまつわる特筆事項
ケ号作戦成功の核心は、このキスカ突入隊の一時間と米軍不在の十時間(実際には当初の4~5時間)との「重なり」である。これこそケ号作戦成功の真実である。端的に言えば、水雷部隊のキスカ島海域への進入時、米軍は米軍内の日本救援隊の突入に関する誤った情報によって、キスカ海域を離れること約2時間の航程の海域に、全軍が移動して「幻の時間」と霧中の対峙の中での激戦(約2~3時間)の後、日本軍の反応が全くないことに気づき、すべての誤認に基づく行動とみなして、誤認戦を打ち切って元のキスカ海域に帰り、全艦が燃料や弾薬の補給を行い、元の配置に戻るまでに約10時間を要したという。
この「米軍の10時間の不在」と「日本隊のキスカ突入時間(約50分)が「偶然かつ完璧に」重なったことが日本軍にとっての唯一の「全生還」の実態である。まさに「天の配剤に基づいて奇跡」と感謝するゆえんである。ここにおいて、五艦隊の偉い方の言う「深い霧による成功」との決定的差異がある。いかに深い霧も米軍のレーダーの前には、部分的効用を認めるとしても決定打とはなりえない。以上をもって、私の推理を神への感謝の記を務める。
【話の中から】
開戦前、山本五十六海軍大将は「1年、2年は暴れまくれる」と豪語したが、実際には、半年にして制海権を奪われる結果となった。米軍は、真珠湾で失った戦力を短期間で修復している。これが、戦争だ。ミッドウェー海戦で、目前に敵がいることを南雲艦隊に伝えなかった結果が、大敗北となった。適宜な対応ができていれば、大勝利となっていた海戦である。
ケ号作戦、第一次作戦は、途中で霧が晴れてきて引き返した。第二作戦は、米軍レーダーに存在しない、艦隊が映し出され、霧が晴れることもなかった。撤収訓練にあたり、一人に使える時間は、僅かである。そこで、問題となったのが、陸軍の銃器携行だった。これを持ったまま、乗船するには時間がかかり過ぎ、作戦が成功しない。武器を手放すことを説得することに苦労したという。撤収用ボートは、敵に知られないようにするため、使用後は破壊した。
何故、敵レーダーに存在しない艦隊が映し出されたのか?アッツ島を通過するときに玉砕した英霊たちの声を聞いた。彼らがレーダーに存在しない艦隊を映し出したのではないかと、今も思っている。
タグ:大東亜戦争