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2011年08月09日

キスカ撤収「ケ号作戦」

平成23年7月15日、山口市にて「日本はこうなったら核武装するしかないな」著者、吉澤正大水産大学名誉教授をお招きして「キスカ撤収作戦」をテーマにした勉強会が行われた。

【吉澤正大氏プロフィール】資料より
大正7年、長野県生まれ。
東京高等商船学校卒業、海軍予備少尉に任官、終戦まで海軍第一線で勤務(戦艦扶桑、駆逐艦響、軽巡五十鈴に乗艦)。次いで海軍砲術学校教官にて終戦に至る。この間、キスカ撤収「ケ号作戦」、マリアナ沖海戦などに参戦。昭和19年に海軍大尉に進級。1950年に海上保安庁に入庁。
朝鮮動乱下、米軍指揮下に編入され特別任務を果たす。2年後、農林水産省水産庁に出向し、水産大学校の練習船の機関長として勤務。1971年に水産大学校機関学科教授となる。1982年に退官後、国際協力事業団の派遣で東南アジア漁業開発センターに4年間タイのバンコクに勤務。92年に勲三等旭日中授章。92歳を超えても今なお、正しい日本の姿を問い続けている。

【背景】
 真珠湾攻撃の翌年、昭和17年(1942)6月、日本軍は、ミッドウェー作戦の陽動作戦として、アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を攻略したが、ミッドウェー海戦で大敗し、制海・空権を失った。
 翌年、昭和18年(1943)5月、アッツ島にて米軍との間で、激しい戦闘が行われ、日本軍は、玉砕となり、日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は27名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。アッツ島の喪失によってよりアメリカ本土側に近いキスカ島守備隊は取り残された。
 そのキスカ島に取り残された、日本軍撤収作戦「ケ号作戦」が、この日の主題である。

【吉澤正大氏執筆資料から】

1、 一期作戦は、昭和18年6月発動、当時米軍は制海権、制空権を完全に掌握し、作戦は潜水艦によってのみ可能と考えられた。しかし潜水艦もレーダーに捕捉され、10艦が轟沈され、この作戦も打ち切られた。

2、 のため水上艦艇による「一回一挙」作戦となり、成功目算は、限りなく遠のいた。上層司令部(大本営、連合艦隊、第五艦隊など)が何を考えていたのか、おいおいわかってきた。成功の目算はなし、ともかくやってみるだけ、つまりその中で「どう動けば海軍の面目は立つのか」が主題となった(アッツ島の守備隊の玉砕は陸軍が主流だった)。この中で、木村昌福司令官は「俺は全員連れて帰る」の発想を捨てていなかったと思われる。第一次作戦は昭和18年7月7日発動され、航法は徹底した「唖、聾、盲航法」であった。かくして15日、0200地点について、キスカ湾突入のチャンスを考え、五回の往復を繰り返し、だがチャンスなしと考えられた。各艦からは「突入されたし」の具申があったが、司令官は沈思黙考の果て、0900「帰るぞ」と決意を示された。この決意は、ともかく関係者全員の運命を決定づけた一瞬であったが、五艦隊司令部は「大不満」の渦となった。特に参謀長の大和田少尉は「キスカの入り口まで行って不突入とは何事だ」と怒りをあらわにして「臆病者」呼ばわりした。大本営海軍部でも木村更迭の案件がでたが、河瀬司令長官の計らいでそれは見送られた。しかし、いろいろと条件がつけられた。「河瀬長官は突入地点まで全軍を直接指揮せよ」と、第二次出発は阿武隈帰投から四日後に再開された。Z日は27日と決められ、さらに時間単位の変更が追加された。
 濃霧の中、阿武隈と国後が衝突し、そのあおりを受けて若葉と初霜が衝突した。阿武隈は応急修理して四時間の遅れを生じ、初霜はかろうじて基地に帰った。後日考えてみると、これらの時間の遅れは部隊のキスカ突入に大きく作用していたことが分かる。それが吉と出るか凶と出るか、神のみぞ知るところだ。

3、 すべての作戦が終了した時は、五艦隊司令長官は山本五十六大将と永野修身大将宛に次の報告文を打電した。(しかし、この報告には大きな誤認がある。それについては後述する。)
ケ号作戦概略
8月1日、多摩を率いて水雷部隊とともに率いて水雷部隊とともに7月22日幌延海峡を出撃。29日0700キスカ南西方50カイリに達し、水雷部隊を分進、突入せしむ。水雷部隊は1340鳴神島に進入、所在陸海軍守備部隊を収容。8月1日0530幌延海峡に帰着。ここにケ号作戦を完了せり。撤収人員海軍2518名、陸軍2669名、遺骨30柱。霧中待機中、軽微なる触衝事故発生せるほか艦艇の損傷なし。思うにこの作戦が濃霧のため敵機の活動全く封殺せられ、敵艦隊の哨戒また不備なる好機に乗じ得たるは、まったく天佑神助(てんゆうしんじょ)奇跡によるものにして、感激のほかなし。このようにしてケ号作戦は完結した。

 ケ号作戦にまつわる特筆事項
 ケ号作戦成功の核心は、このキスカ突入隊の一時間と米軍不在の十時間(実際には当初の4~5時間)との「重なり」である。これこそケ号作戦成功の真実である。端的に言えば、水雷部隊のキスカ島海域への進入時、米軍は米軍内の日本救援隊の突入に関する誤った情報によって、キスカ海域を離れること約2時間の航程の海域に、全軍が移動して「幻の時間」と霧中の対峙の中での激戦(約2~3時間)の後、日本軍の反応が全くないことに気づき、すべての誤認に基づく行動とみなして、誤認戦を打ち切って元のキスカ海域に帰り、全艦が燃料や弾薬の補給を行い、元の配置に戻るまでに約10時間を要したという。
 この「米軍の10時間の不在」と「日本隊のキスカ突入時間(約50分)が「偶然かつ完璧に」重なったことが日本軍にとっての唯一の「全生還」の実態である。まさに「天の配剤に基づいて奇跡」と感謝するゆえんである。ここにおいて、五艦隊の偉い方の言う「深い霧による成功」との決定的差異がある。いかに深い霧も米軍のレーダーの前には、部分的効用を認めるとしても決定打とはなりえない。以上をもって、私の推理を神への感謝の記を務める。

【話の中から】
 開戦前、山本五十六海軍大将は「1年、2年は暴れまくれる」と豪語したが、実際には、半年にして制海権を奪われる結果となった。米軍は、真珠湾で失った戦力を短期間で修復している。これが、戦争だ。ミッドウェー海戦で、目前に敵がいることを南雲艦隊に伝えなかった結果が、大敗北となった。適宜な対応ができていれば、大勝利となっていた海戦である。
 ケ号作戦、第一次作戦は、途中で霧が晴れてきて引き返した。第二作戦は、米軍レーダーに存在しない、艦隊が映し出され、霧が晴れることもなかった。撤収訓練にあたり、一人に使える時間は、僅かである。そこで、問題となったのが、陸軍の銃器携行だった。これを持ったまま、乗船するには時間がかかり過ぎ、作戦が成功しない。武器を手放すことを説得することに苦労したという。撤収用ボートは、敵に知られないようにするため、使用後は破壊した。

 何故、敵レーダーに存在しない艦隊が映し出されたのか?アッツ島を通過するときに玉砕した英霊たちの声を聞いた。彼らがレーダーに存在しない艦隊を映し出したのではないかと、今も思っている。



タグ:大東亜戦争
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2011年05月18日

国難に直面したとき

 江戸幕府の崩壊は、日本の大きな転換期であったが、それでも政権が崩壊したのであって国が滅んだ訳ではない。むしろ、国を滅亡させないために崩壊させたともいえる。
 5月3日愛知憲法フォーラムで講師として来られた、エコノミスト田代秀敏氏の話は、「憲法改正」に思いを寄せる来場者には、不評な面もあったが、“責任を背負う”“重要な決定を下す指導者”が、育たない日本の現状分析には、相応な説得力を持つものであった。
 そこで、日本の大転換期となった幕末に、改めてスポットを当ててみた。

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【資料引用:安政東海地震下田での津波】

 幕末日本を襲った天災“安政の大地震”は、1854年12月23日(安政元年11月4日)にマグニチュード(以下M)8.4の“安政東海地震”その32時間後に同じくM8.4の“安政南海地震”が続けて発生し、10ヶ月弱経った翌年、1855年11月11日(安政2年10月2日)関東直下型のM6.9の“安政江戸地震”が発生した。
 この三つを指して「安政三大地震」と呼ぶが、これ以外、この間に伊賀上野地震(M7.4)、飛騨地震(M6.8)、飛越地震(M6.7)が、発生している。
 これを「日本列島の地質学的安定が壊れた状態」と定義し、宝永での東海・南海地震。そして今回の東日本大震災が、この状態にあり、東海、南海、東南海地震が、連鎖的に起こることが警戒される。
 安政地震は、東海、南海、それぞれが、M8.4という大地震だったが、どちらかといえば、翌年起きた、安政江戸地震を指して言われる。近年の阪神淡路大震災と同様、関東直下型というところに甚大な人的被害が起きたからだ。

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【資料引用:黒船来航】

 この頃、黒船が来航、そこへ安政東海、安政南海地震による被災地への復旧事業に加え、江戸が被災してしまうという、多難な時局を迎えた時代であった。
 そこに急激な人口増加が起こった。何故、急増になったかは、謎だそうだが、田代氏は、この人口増があったから、力の増加となり、安政大地震の危機を乗り越えたとするが、同時に、江戸幕府を圧迫したともいう。
例えば、木曽の山林管理を尾張藩が行っていたように、日本の森林は、時間をかけ木材の植林と成長、伐採をバランスよく行ってきたが、人口急増によって、家屋建築が急増し、木材消費が加速され、それまでのシステムが追いつかなくなってきたといわれる。
ひとつのシステムが壊れると連鎖的に社会システムが壊れるように、江戸幕府は、天災、黒船等列強からの外圧、人口急増、それらからくる財政難と、幾重苦に耐えられなくなって崩壊した。

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【資料引用:安政地震でナマズを封印する要石に祈る当時の漫画】

 国難を迎えた日本の生き残りは、それまでの体制から脱却するしかない。
そこで江戸幕府の終焉となる、大政奉還になるのだが、その立案は、坂本竜馬といわれ、それを素早く実行に移したのが、最後の将軍、徳川慶喜だ。しかも、新政権の舵取りは、徳川慶喜本人が行うつもりでいて、坂本竜馬もそのように考えていたといわれる。
 このような展開は、外国では見られない。殊、19世紀の政権は、その座を奪われれば、生命も失うのが常識の時代だ。
ある意味、往生際が悪かったのは、むしろ薩・長の方だったのかもしれない。大政奉還に賛同したのは、徳川慶喜が、拒否することを前提とし、倒幕を想定していたからだ。
自ら、政権を返上した、徳川慶喜とは、公儀政体を目指す点で一致するも、徳川が中心となっていたのでは、新政権とはならず、薩・長は、クーデターを引き起こした後、王政復古の大号令となり、戊辰戦争へと突き進んだ。
能力も軍事力もあった徳川慶喜は、「敵前逃亡」というレッテルを貼られるような不可解な行動をして、戦闘の意義を喪失させたが、江戸城開城後も戦闘が函館まで及んだのは、新政権と旧幕府の互いの意地といったところか。現代日本でどちらかが「悪役」という
 歴史では、結果、幕府が賊軍となったが、この時代の政争は、必ずしも国を売るような行為はしていない。徳川慶喜は、強い権力が手中にあった時点で、列強に内政不干渉を承認させており、また、新政府軍、旧幕府軍、共に、それぞれ、外国からの軍事訓練や武器供与を受けていたが、派兵要請をすることはなかった。

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【資料引用:徳川慶喜】

 これが、双方、私利私欲のためなら、外国勢力を介入させてしまったこともあったのだろう。
明治維新は、国難を乗り越える手段であったが、明治新政府自体、磐石ではなく旧幕府側が、政権、既得権に固執せず、日本の将来を見据えた判断をしたところに大転換が、可能になったことが伺える。
レーガンやサッチャーは、自国の完全没落一歩手前で自国の実情に対し手を打った。それが、国家の危機を乗り越えられた。いわば、明治維新一歩手前で政策を打ち出したのではないだろうか。
 病疫あり、天災あり、刀兵災(他国からの侵略)ありと、日本も大転換が必要な時が来た。指導力、決断力ある人物の待望論があるが、国難に、この国と命運を共にする国民の意志と気概がなければ、それを背負い、立とうとする者も出てこないだろう。



そして現在の指導者のニュース
MSN産経ニュース>>>参院議長、首相退陣を…>>>>>>>>>>
タグ:国難
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2011年04月20日

目的が見えなくなった「小牧・長久手の戦い」

 日本の激動期、戦国時代。殊、終盤に入る頃は、二転三転と、日を追うごとに情勢が目まぐるしく変化した。例えば、戦国時代の終結にもっとも影響を与えた織田信長は、天正10年(1582年)3月11日に武田家を滅亡させたが、6月2日本能寺の変で横死した。実に3ヶ月にも満たない間の出来事である。ドラマの影響もあってか、その間はもっと長い印象だ。
 そして信長没後、激変に続く激変に、次の覇者となる豊臣秀吉と徳川家康という二大巨頭が直接戦うことになったのだが・・・

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柴田勝家

 時は、天正10年(1582年)本能寺の変により、羽柴秀吉は、主君の仇、明智光秀を討ち取り、織田家での発言力を増した。この頃、織田家臣は、それぞれが他国守護大名と同等の力を持っていた。
一方、信長と同盟関係にあった徳川家康は、武田領地を確保した。
翌年天正11年、柴田勝家と羽柴秀吉の織田家臣同士が激突(賤ヶ岳の戦い)した。この戦いで勝利した秀吉は、実質的な信長の継承者となり、大坂城を築城。天正12年、ないがしろにされた織田家後継者、織田信雄が、家康と同盟を組んで挙兵したことにより、名目、羽柴秀吉VS織田信雄。実質、羽柴秀吉VS徳川家康との戦いとなった。本能寺の変から2年弱のことだ。

 この戦いは、「小牧」「長久手」と、尾張の地名を指しているが、紀州、四国、北陸、関東の勢力が秀吉包囲網をつくり、紀州の根来衆・雑賀衆が、先兵として大坂城へ攻撃を仕掛けるという、構造的には、広範囲なものだった。

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豊臣秀吉

 天正12年3月13日、羽柴軍が犬山城を占拠。家康は15日、小牧城に入った。秀吉は、27日に犬山城入りし、その後、最前線となる犬山市楽田に着陣。双方、万全な体制を敷いたことから膠着状態となり、これを打破するために羽柴軍は、家康の本拠地、三河を攻める迂回作戦に出たが、先回りするかのように徳川軍が随所で勝利し、長久手での激戦の末、羽柴軍の主だった武将が戦死、羽柴軍は大敗した。その後、秀吉は、小牧山を攻めるも敗退。一方、北陸では、共に信長に仕えた佐々成政と前田利家が激突し、前田利家が佐々成政を退けた。この後も散発的な戦闘は起きるが、戦況は、家康に有利な方向へ展開した。

 しかし、元々は、羽柴秀吉と織田信雄の戦いであったことから、秀吉は、信雄に心理的な圧力をかけ、これが功を為し信雄は単独講和にて戦線離脱。ここで家康は、大義名分を失い、戦闘は終結。6ヶ月の間、相応の動員と犠牲者を出しながらも広範囲かつ散漫な印象の戦役は、あっけない幕切れとなった。

 織田信雄の戦線離脱で、辛酸を舐める結果となったのは、紀州・雑賀衆や根来衆、四国・長宗我部元親、そして佐々成政。紀州・四国勢は孤立し秀吉に制圧された。打倒秀吉を願う佐々成政は、必死に家康を説得するも耳を傾けられなかった。


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三方が原敗走後、戒めとして描いた若き日の徳川家康

 歴史だからこそ、結果が見えているが、あの激動期の中にあって、合戦として歯切れの悪い、小牧・長久手の戦いは、領地を奪取し覇権を競う戦国時代は既に去り、政権が確定する課程における、武力行使を伴った政争であったことが読み取れる。
織田信長は明智光秀という家臣によって討たれたが、光秀は、すぐさま、秀吉に討たれ、次は、柴田勝家と秀吉が争った。この織田家の状態を好機とみて、攻め入る武将がいても不思議ではなかったが、全国の武将は、既に信長によって戦意を削がれており、天下取りは、信長没後も、信長と行動を共にした勢力図で展開された。
小牧・長久手の戦いの後、関白となり豊臣政権を確立した秀吉にとって、唯一、屈服させられなかった家康を臣従させる必要があった。そこで秀吉は、織田信雄をもちいて家康の懐柔にあたらせ、次に実の妹を正室として差し出し、更には、実母まで送り出し、最後には、秀吉本人が夜に紛れて密かに家康を訪ねた。

 天正14年(1586年)、家康は、秀吉の家臣となることを表明した。この形振り構わぬ秀吉の説得方法に、野戦の達人、家康も戦い方にさぞ困ったであろう。母親まで差し出す秀吉に、これに応えない家康は、次第に世間から評価を落とす気運があったのだろうが、反面、軍事力で負けていない家康を示すものでもあった。
秀吉と家康が、駆け引き材料を図る戦だったともいえ、これで、小牧・長久手の戦いが本当の意味で終結したともいえる。
この戦は、豊臣秀吉臣下になりながら、特別待遇となった徳川家康が、江戸開府の道筋をつくった日本の歴史上、重要なできごとではあるのだが、本能寺の変から4年、開戦の張本人である織田信雄の戦線離脱、奇妙な戦い方による秀吉と家康の決着は、戦場を駆け巡った武人にとって、心情いかなるものであったのだろう。

更に後、慶長5年(1600年)、徳川家康の覇権が決定的となった関が原の合戦が起きた。
小牧・長久手の戦いで孤立し秀吉より紀州征伐を受け、敗走した根来衆は、15年の歳月を経て、犬山城主で知られる成瀬正成とともに東軍として参加し、活躍した。可能なら、彼らに小牧・長久手の戦いの顛末ついての感想をインタビューしてみたいものだ。


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藤堂高虎


【根来組の一人に聞いた】慶長5年9月15日関が原

 あん時はよォ、俺たちゃ、折角、徳川の旦那に加勢してやったのに、何だ、とっとと、止めちやがって。あの後、サルの旦那は、藤堂高虎というトンデモねえ野郎を寄こしやがって、雑賀衆がやられちまった。
 しかも、徳川の旦那とサルの旦那の手打ち、あんなんじゃ、敵方の池田親子も浮かばれめェよ。武士は戦って決めるもんだろ?結局、徳川の旦那に世話ァなってるんで言えんかったけど、ず〜っとそう思ってた。でも、徳川の旦那は、世間で言われるように狸爺だねェ。今日まで生きてきた甲斐があったってもんだよ。藤堂の野郎、信用できねえが恨んじゃいねえ。先に逝った連中も、これで浮かばれるってもんだ!
 そういや、俺、変な夢みてな、何か、砂ばっかのところで、加駄費て野郎をやっつけてやろうと思ったが、どっちも見たことねえ、服装と武器を持ってたが、あっちの武器はやたらと強エ〜んだ。
そこで、南蛮の連中が、助っ人するってことで、はじめのうち、鉄の鳥で沢山の雷玉みたいなものを落としてったんだが、途中から、味方するってわりに、俺達のところへ、飛ばしてきたぞ!「あ、間違えた」だってよ。それから来ねえんだ。そのうちに加駄費て野郎は、馬のない大八車みたいなものに乗って手を振ってやがった。変な夢だったなあ。

 なんてことは、ないわな・・・。




AFPBB News>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
結局、NATOは、どうしたいんだ。炊きつけただけに見えるぞ。

タグ:戦国時代
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2011年02月26日

一面の緑は、激動期の武士の転職

 東京から東名高速で名古屋へ向かう途中、一面、茶畑が広がる景色が目に入ってくる所がある。そこは、いわずと知れた「静岡茶」を生産する、牧の原台地で、日本一の生産を誇る。
静岡茶は、宇治茶とともに日本二大茶と呼ばれる。ところが、宇治茶が、鎌倉時代から生産されているのに対し、静岡茶が、これほどの規模で生産されるようになったのは、100年ほどと、歴史が浅く、その理由は、明治維新にある。

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黒船来航

 嘉永6年(1853年)ペリー率いるアメリカ海軍が浦賀に来航した。いわゆる「黒船来航」から、日本は、激動期が、はじまった。
ペリーは、米国大統領の国書を持ち、日本に開国を迫った。1年の猶予をもって、翌年、ペリーは、再来航し日米和親条約を締結。下田と函館を開港し、それぞれに総領事館を設置した。この頃、世界は欧米列強による植民地獲得競争の時代。米国領事のハリスは、清が、英・仏との戦争で敗北へ向かうことを理由に、英仏が、将来、日本へも不利な条約を迫る可能性を示唆し、先に米国との条約締結を切り出した。いわゆる「不平等条約」だ。
日本は、この条約に調印したが、同様の条約を英・仏・露・蘭の列強外交圧力に屈し、朝廷の勅許なくして井伊大老が調印した。政治的に最高権力者であった、大老井伊直弼の強権ぶりは凄まじく、吉田松陰も処刑されている。この強権に反発した浪士による、桜田門外の変が起き、井伊大老は暗殺される。しかし、その後も開国による貿易で、金銀比価の違いや、不平等条約等々、日本に不利益な状況が生じることに、攘夷思想が隆盛し異人斬りが横行。幕府批判の高まる中、坂下門外の変が起こる。

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大老井伊直弼

 失墜へ向かう幕府に追い討ちをかけるように、長州は、英・米・仏・蘭と交戦、薩摩も英と戦争。
藩が、外国へ戦争を仕掛けるというのも凄い話である。列強は、このような日本の綻びに入り込もうとした。
 さて歴史は、その後、薩長同盟、大政奉還、戊辰戦争、明治維新と突き進んだ。これを佐幕派と倒幕派で考えれば、徳川の敗北にみえるが、列強の侵略から、日本が生き残りをかけて、危機を乗り越えようとした点においては、最後の将軍、徳川慶喜は、他の志士以上の政治力を発揮したといえる。

 慶喜にとって政敵でもあった、井伊大老が調印した不平等条約は、列強は正規とするも、勅許がないことから、朝廷はこれを認めず、この捩れ状態を幕府の責任で解消するため、自らの切腹をも示唆し、朝廷への説得を試み、一応の勅許を得た。ある意味、売国にもみえるが、列強の恫喝の前に、戦える力を持たない日本では、止むを得ないこととも言える。幕府幕引き、敵前逃亡など惰弱なイメージが強い慶喜だが、京都では、長州軍に自ら切り込んでいる。
 第二次長州征伐において、薩長同盟となった状態で、14代将軍、徳川家茂が薨去したことにより、朝廷から休戦の詔勅を得、休戦協定を締結させた。慶喜は、朝廷からの勅命を得ることに長けていたようだ。
 薩摩が、英国との戦争後、英国が接近してきたが、慶喜は、フランスから資金援助を受け、製鉄所や造船所を建設し、軍制改革を行い、欧州留学を奨励した。この頃、西郷隆盛や大久保利通らが、慶喜を糾弾するため会談を設けたが、慶喜の能力に政治的に敗北。西郷・大久保らは、武力による倒幕を決めた。
 そこで、大政奉還となる。尊皇攘夷派は、慶喜は大政奉還を拒否するものと読んでいたが、慶喜自身が、明治天皇に政権を返上した。これにより、大久保たちは、先手を打たれたことになった。そこで、大久保・岩倉が次なる倒幕の手段として、クーデターを起こし、王政復古の大号令が発せられた。慶喜は、当初、衝突を避ける行動をとったが、薩摩藩の挑発に憲兵、京都を封鎖。鳥羽・伏見の戦いとなり、戊辰戦争がはじまった。この鳥羽・伏見の戦いで、不利になったとはいえ、十分な戦力を保持していたにも関わらず、慶喜は、兵を置き去りにして軍艦で江戸へ退却。更に慶喜に対する追討令が発せられ、朝敵となり、江戸城無血入城が行われ、武家政権は終焉となった。

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徳川慶喜

 英邁で知られる慶喜は、倒幕派との戦いに、勝てるだけの戦力があり、倒幕派より兵器や軍体制も近代化されつつあった。また、呼びかければ、馳せ参じる大名も全国で多数存在したうえで、このような行動をとったことに「これより、方法はなかった」と言ったという。その言葉の意味に、アジアが列強の植民地と化していく状況を知り、内戦を終わらせる必要があったと考えた・・・ともいわれる。また、朝敵とされた慶喜は、すぐさま謹慎する尊王思想である。
 現代では、明治維新の立役者として、坂本竜馬、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎、大久保利通、西郷隆盛、等々、名を連ねるが、列強の登場により、長期に渡った鎖国の負の部分を背負いながら、日本の危機を近代化で乗り切ろうとした、徳川慶喜の存在は、欠かすことができない。
 仮に坂本竜馬が生きていれば、薩長同盟のように倒幕派と慶喜を結びつけるよう、努力したのでは、ないだろうか。

 話を戻すが、武家政治終焉に、徳川慶喜は家臣たちの職業として、牧の原台地の開拓をはじめた。(勝海舟の案とも言われる)開国による、お茶の輸出と、産業の成長を視野に入れていたとも言われる。彼らが開墾した茶畑は、地元農家に引き継がれ、今日、日本一の生産を誇るに至った。静岡茶は、激動の幕末から明治における、壮大な武士のトラバーユの結集だった。

タグ:静岡茶
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2011年02月14日

奥深き「武士道」

 「武士道」とは何であろう。「潔い」「自己より公」「克己」等々、「道」が付くだけあって奥深い。もともと武士は、武芸に秀で、その力を警備や兵力として、生死を賭けた状況にもなる。そのような極限状態を経験し、心身の鍛錬から生まれてくる思想なのであろうと想像する。

 では、この武士道は、いつ頃から形成されていったのだろうか。
武士らしき存在は平安中期(10世紀)、皇族が臣下に下った、桓武平氏や清和源氏や藤原氏のような軍事を専門とする貴族からはじまる。元来、高貴なルーツを持つ。
平安末期、平家(平氏)により武家政権が誕生し、源頼朝による鎌倉幕府で確立された。平清盛から源頼朝に政権が移行した、平家滅亡の壇ノ浦の合戦で、源義経が敵船の漕ぎ手を狙い撃ちしたことが取り上げられている。この時代、海戦における舟の漕ぎ手は非戦闘員であり、これを射ることは、戦闘でのルール違反として非難される。(勿論、今でも非戦闘員を攻撃してはならない)実際に義経がそれを命じたかは定かではなく、源氏兵が、平家の船に乗り移っての戦闘で船頭らが斬られたという説もある。

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平安末期の武将、那須与一

 いずれにしても、非戦闘員を殺すことは、戦闘ルールに反するという、近代的、戦争ルールの概念が、存在していたわけだ。これからすると、武家政権誕生創世記であるこの時代、殺し合いという極限状態でも、戦闘の品格が備わっていたと考えられる。
 武家は、平将門(桓武平氏)や藤原純友による反乱を鎮圧した勝者が、その後の武家政治を担うことになるが、それら名門武家に対し、地方で所領や部下を持つ武士「大名」が現れ、守護大名として、治安維持の役割を果たすが、中央集権が機能しなくなった戦国時代に、各地域を支配する戦国大名が誕生した。

 それぞれ、源氏、平氏、藤原のルーツを持つようだが、軍事力がものをいう下克上の時代だけに、勝者となってから、武家の系譜を名乗った印象もある。
また、一向宗の一向一揆という異彩を放つ軍事力も現れた。この中には、士豪的武士もいたようだが、多くは、百姓が中心だ。したがって武家のように治安維持での戦闘の歴史で培った概念がなく、例えるなら、リングに、ケンカの強い素人が上がりこんだ存在。
当然、プロボクサーは、そのような者と試合はしたがらないのと同じで、戦国大名も一向一揆は、相手にしたくない存在だったのだが、これにまともに相手をして殲滅しまったのが、これまた異端児の織田信長だ。天運も味方してか、信長の突破力は、将軍足利義昭を京から追放し、それまでの列強戦国大名を桧舞台から引き摺り下ろしたため、没後は、家臣達により覇権が争われる。その家臣達は、柴田勝家や前田利家のように武家素性がよく分からないものが多く、その中で一番素性が分らないというか百姓の豊臣秀吉が、天下人となった。秀吉は、武家の系譜を手に入れたがったようであるが、それにしても織田信長による、家臣のリクルートは、武家政治がはじまる平安末期に比べると、随分、「武士」の系譜が、変わった。

 江戸時代となって、清和源氏と称する徳川家康が征夷大将軍となった。武芸者は、鎧姿から平服での武芸を考案するようになる。柳生が引き継いだ新陰流は、「転(まろばし)」という「禅」の境地や、宮本武蔵の五輪書のように、武芸者がその鍛錬の中から奥義を求め、治世の時代に入り、武芸がインテリとなった。それから250年、欧米列強のアジア進出で、日本も長期における天下泰平の時代が終わり、国の存亡をかけた幕末で、再び、軍事を担う武家の本分が発揮されることになるが、時代は変わり、武士によって、武家政治は幕を閉じた。

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西南戦争の挿絵

 武士道は、天下泰平が到来した江戸時代、軍事的緊張感がなくなり、高潔な人格を尊ぶ道徳性を為政者の武士倫理とした。明治維新が成し遂げられた背景に、個より公を優先する武士道精神があったことがあげられる。明治に入り、新渡戸稲造によって、日本精神の土壌「武士道」という言葉が、定着した。李登輝元台湾総統をはじめ、台湾人日本後世代の方達がいう「武士道」は、新渡戸稲造の武士道だ。ただ、前台北駐日経済文化代表処代表の許世楷氏は、李登輝氏のいう武士道を「刀を持った武士の時代を見たわけではなく、本から学んだもの」という含みのある表現をしている。
確かに、武士がいない明治以降の武士道は国民的倫理観であったが、それはそれでよいと思う。許世偕氏自身も、民進党から国民党政権になったときに、国民党立法委員から売国奴呼ばわりされ、「士は殺されるべくも、辱められるべからず」と、武士道のようなことをいって職務を辞任した。

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5千円札の新渡戸稲造

 「ブシドウ」は、海外でそのまま通じるが、残念ながら、外交で、その美徳は通じない。武士道では、言い訳は見苦しいものだが、主張すべきところは、はっきりと言わなければ、在らぬ濡れ衣を着せられることが、大東亜戦争敗戦により、はっきりした。

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産経ニュース

 日本を取り巻く周辺環境は、「反戦平和」の奇麗事では済まされない。核については、正面から、大いに語るべきだ。


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posted by 渡邊 at 23:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史を眺めて
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