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2011年02月10日

GHQも恐れをなす「平将門」

 1990年代の日本は、バブル経済が崩壊し長い不況に入った時期だ。当時としては、まさかの金融機関の倒産等、それまで米国格付け会社が軒並み、トリプルAの評価をしていた日本企業の格付けを、一気に引き下げた。しかし、バブル期でトリプルAにしていて、大不況に喘ぐ状態で格下げをする格付け会社は、シンクタンクの価値があるのか疑問を持つ。企業も国民も、それに振り回されない強さを持ってもらいたいと当時、思った。
 話がずれたが、この不況期、永大通りに面する企業が軒並み倒産。その内で一番大きなニュースになったのが山一證券の倒産だった。そこで妙な噂が東京で流れた。永代通り起点に将門の首塚があることから、「これは、将門の崇り」というもの。
 東京大震災等々、事ある毎に、江戸っ子は、将門のせいにしてきたが、まさか、バブルの崩壊で将門が出てくるとは思ってもいなかった。しかし、敗戦後のGHQが、区画整理を行おうとしたところ、不審な事故が相次ぎ、造成を取りやめた。大日本帝国が勝てなかった米国を恐れさせた将門とは何者だったのか。

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平将門像

 平将門といえば、平安中期、関東において、「新皇」と自称し、独自で天皇として即位した、いわゆる“朝敵”として歴史に名を残す豪族。同じ時期に、瀬戸内海で藤原純友が反乱を起こし、将門の乱と合わせて「承平天慶の乱(939〜941年)」といわれる。同時期に発生したことから共同謀議とも推測されるが、この時代、日本全国で反乱が起きており、その内際立ったのが、新皇を名乗る大それたことをした平将門と、乱が2年に及んだ藤原純友だった。
 では何故、これほど、全国各地で反乱が起きたのだろう。平安中期は、公家政治の時代で、武家政治が登場するのは、これより200年後の鎌倉時代。
 平将門の家系は、桓武天皇の系譜にあたる今でいう中級官僚。京都での出世の見込み薄く、関東へ行き、地方富豪の武力闘争鎮圧の職務に当たった。治安維持にあたるのが武芸の家系、後の武家となる。
 承平天慶の乱をはじめとする、反乱は、いわば待遇改善を求める武芸の家系の労働闘争だった。当然、これら反乱を鎮圧するために動くのも武芸の家系であり、その意図も、勲功による待遇改善だ。本来なら、「待遇改善」という同じ目的を持つ者が、本意ではない争いに呑み込まれていく武力闘争となった。 これより武士が確立されていくための過程だったともいえる。

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江戸時代、歌舞伎での「平親王将門」
後世「日本将軍平親王」と表記された


 将門は、はじめから、朝廷に対して、謀反を企てていたのではなく、武芸家系同士の闘争をしていたが、その内、国府を取り囲み攻撃したことから、朝廷に反旗を翻した形になってしまった。勢い、そのまま、関東での王となり、「新皇」を名乗り即位までした。ただ、朝廷から権力を奪うものではなく、「関東独立国」という概念だったようだ。
 しかし、瀬戸内海の藤原純友の反乱といい、朝廷の統治に支障があることから、討伐対象とされ、将門は討死。今でいう、国家転覆罪を犯した者として晒し首となった。
 「武家政権」という概念があれば、謀反ではなく、幕府の先駆けとなったかもしれない。逆に言えば、武士の確立への第一歩が、将門の乱だった。武家政治を確立した源頼朝は、「新皇」ではなく「征夷大将軍」として朝廷と併存した。後の戦国武将や徳川幕府が、平将門を崇敬するのは、武家政治の祖にあったと考えていたからではないだろうか。江戸時代には、奏上により「朝敵」から除かれたという。
 将門は、時代毎に評価の昇降を繰り返し、現代日本では、「東京の守護神」とも言われるようになった。だから、GHQも恐れるわけだ。
タグ:将門
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2011年02月06日

朝貢は、当時の「安全保障条約」

 聖徳太子の時代、日本は、中国に対し朝貢を行っている。授業で「遣隋使」や「遣唐使」という名が出てきたことを記憶している人もいると思うが、それが、朝貢だ。
 朝貢は、差し出す側(進貢)と受ける側(入貢)では、原則、受ける側の方が大きい国だ。日本は、支那王朝に朝貢した時代があれば、渤海や朝鮮から朝貢を受けたこともある。
 従来、朝貢とは、支那大陸の王朝(主として漢民族)の中華思想による外交だ。易姓革命による支那皇帝は天子であり、その徳に周辺国の君主が慕って貢物をし、それに恩賜を与えるというもの。
 表面的には、いかにも「中華」で、鼻持ちならないが、「皇帝の徳」は、体裁でもあり、実の部分は、入貢により、貢物以上の回賜をして、安全の担保とした。したがって、朝貢関係を持とうとしない国は、攻めてくる可能性があると考え、何とか朝貢させようとした。

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壱万円札に使用された聖徳太子像

 つまり、進貢側にとっては、支那皇帝を認めながらも、足元をみながら有利な回賜へ運ぶことも可能であった。聖徳太子は、隋皇帝、煬帝に対し、自らも「天子」と名乗り、煬帝と対等であることを示して、朝貢を行った。当然、周辺国で、そのような態度をとる者はおらず、煬帝は激怒したものの、日本に対し敵対することができなかった。
 明の時代、女真(後の清)は、明と断交状態にあったことから朝貢ができず、自国物産品は朝鮮を通して明へ入れている。朝貢は貿易材料でもあるわけだ。
 このように、力を持っている国は、朝貢を上手く利用していることが分る。

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暴君煬帝だったが、結局、聖徳太子に我慢した。

 ただ、これが、支那皇帝により「王」の承認を受け、臣下となる「冊封」では、朝貢もかなりの違いが出てくる。 進貢の判断を独自で決められる国(たとえば日本)の朝貢は、支那皇帝が、ひとりで一番のつもりでいるだけだが、冊封されたとなれば、朝貢は義務付けられた「事大主義」朝貢となる。違う言い方をすれば属国だ。日本が南北朝の時代、あろうことか足利義満が、明から「日本国王」として冊封された。もっともこれも、明に対し有利な取引を引き出す外交手段だったと、いえないこともない。義満の本意が、何処にあったかは分らないが、結果的には、足利家の対明貿易利権が主体で、日本が、属国になるものではなかった。
 これが、戦国時代を経て、文禄の役(倭乱=朝鮮出兵)講和において、明皇帝が豊臣秀吉に「日本国王」の称号を与え、冊封しようとしたが、秀吉は激怒し、再度、兵を朝鮮半島へ送った。足利義満より秀吉の方が、外交姿勢は格上だったということだ。もっとも、明を後ろ盾にしようとした義満に対し、明を征服してしまおうとする秀吉とでは、はじめから、立ち居地が違うのは明白だが。

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冊封された足利義満

 明は、西洋の大航海時代以前に、インド洋を渡りケニアまで到達する大航海を成して、その成果で東南アジア諸国などと朝貢関係を増やした。しかし、このときに欧州まで行き、西洋の契約文化に触れることが出来れば、西洋との付き合い方を知り、後の歴史も大きく変わったかもしれない。
明から清となり、長い歳月を経て、朝貢が、冊封国だけになっていく状況にありながらも、清は、朝貢外交の姿勢を変えなかった。しかし、儒教かつ中華思想から派生した安全保障の朝貢外交は、契約文化の西洋では通用しない。西欧列強が、アジア・アフリカを植民地化していく時代に、朝貢感覚で外交を行おうとした清に、軍事力を背景にした外交で条約を結ぶ列強が群がった。その危機感から、欧米列強に対抗すべく、近代化を果たした日本との戦争に清は敗れ、朝鮮は独立し、ここに朝貢も冊封も崩壊した。

 さて、民主党政権になった平成21年。小沢一郎民主党幹事長(当時)が、140余名の議員を連れて胡錦濤主席を訪ねた。この後、習近平中副主席来日にあたり、1ヶ月ルールを無視した、天皇陛下との会談を申し入れる中国政府は、小沢に実現の要請を行い、小沢は、それに応じた。
 小沢が140余名の国会議員を連れて胡錦濤詣でをしたことを「朝貢外交」と表現された。貢物は、「友愛の鳩山外交」だったが、では、その回賜が、習近平来日で、尚且つ、強引な天皇陛下との会談要求とは、まるで属国扱いである。
台頭する中国に太いパイプを持つことを内外に見せつけようとした小沢は、「朝貢外交」というより「冊封」、といった方が正確だ。冊封使、習近平に権威の任命を求める小沢一郎という図式だ。なお、その後、鳩山辞任、民主党内紛等々で幹事長から転落した小沢だが、習近平来日における不敬なる行動は、未だ、悪びれず、持論を述べる記事が文春に載った。

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AFPBB News エジプト情報

タグ:朝貢
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2011年02月02日

はたして、フランスは列強だったのか

 国連常任理事国は、米・露・英・仏・中の五カ国。そのルーツは、第二次世界大戦の戦勝国で形成され、当時は、ロシアはソ連、中華人民共和国は中華民国だったが、ソ連は崩壊、中華民国は、中華人民共和国が「中国」として承認され、いずれも継承国として現在、名を連ねている。
 ただ、細分化すると、「日・独などの枢軸国に勝つために多大な犠牲を払った」という理由からはじまったので、米・英・ソの三国としていたが、諸事情から仏・中が加わった。
 ただ、ソ連が対日戦勝国というのは、甚だ気分が悪い。日本は、負けは負けとして潔くしたら、それ以上に、勝った側が、付け入ってきた。「戦争はやってはならない。しかし、それが避けられないなら、絶対に負けてはならない。」という言葉があったが、負けたことにより、言掛かりや有らぬ濡れ衣まで着せられる敗戦の理不尽さを滲ませている。この言葉を噛み締め、お人好し外交では、いいように利用されるだけであることを現代人は認識するべきだろう。

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仏領・英領インドシナ

 さて、第二次世界大戦が終結となり蒋介石が早々と日本兵を帰還させたが、その背景は、中国に対し、連勝してきた日本軍は負けた実感がなく、降伏せず戦う意志をもっていたため「一刻も早く日本軍が降伏して武器を引き渡し、中国から引き上げて欲しい」というもの。日本軍は、昭和20年8月15日、天皇の詔勅が放送され降伏に従った。いわば、蒋介石は重慶で包囲されている内に、太平洋で日本が米国に敗れ、辛うじて戦勝国になったもの。

 欧州の中華思想を持つフランスも戦勝国としては微妙な立場だ。ドイツのポーランド侵攻で、対独宣戦布告をした英仏だが、フランスは、第一次大戦の被害から、巨費を掛け建設した難攻不落(?)の対ドイツ要塞線「マジノ線」を迂回したナチスドイツの電撃戦で、あっけなく降伏。その後、親独ヴィシー政権が誕生した。このヴィシー・フランスは枢軸国に含まれる。一方、後の大統領になる、ドゴール将軍は、英国へ亡命し、「自由フランス」の名で、その後、英米との上陸作戦に加わり、国土を奪回し、辛うじて戦勝国となった。
 アジアでは、日本が、米・英の対中支援物資輸送を寸断するために、インドシナに植民地を持つフランスと交戦することなく、外交交渉で進軍できたのは、このヴィシー・フランス政権だったことによる。したがって、インドシナでの戦争は、植民地としての利権を持つ米・英・蘭が主だった国で、これに大英帝国連邦のオセアニア諸国が加わった。
フランスは、本国が連合軍によって解放されたことにより、インドシナにおいても連合国の立場となり、ここで日本軍3万とフランス軍9万が交戦し、フランスは制圧され、フランスの植民地支配で抑制されていた、皇帝パオダイをたてた「ベトナム帝国」、シーサワンウォン国王の「ラオス王国」、シアヌーク国王の「カンボジア王国」も独立する。

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ベトナム皇帝バオダイ
資料元http://art-hanoi.com/collection/

 しかし、日本がポツダム宣言を受諾したことにより、これらの独立を認めないフランスは、再植民地化をめざすが、ベトナム帝国から権力を奪取した、ホーチミン率いるベトミンが、ベトナム民主共和国の独立宣言を行い、第一次インドシナ戦争となり、実質、フランスは敗北した。その後、南ベトナム解放と社会主義建設を唱えるベトコンが発足し、ベトナムの相手は、フランスから米国と変わり、ベトナム戦争へ突入する。
西側連合国は、対日戦で勝利したものの、東南アジアで植民地を失った。フランスは、植民地利権への執着からか、引き際が悪く被害を大きくし結果、ベトナム戦争にまで発展した。

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清仏戦争の前、フランスは本国でプロイセン(ドイツ)に敗北(普仏戦争)

遡り、フランスは、ベトナムを1885年、清仏戦争で獲得しているが、アヘン戦争、アロー戦争と連敗中の清に、随所で敗北を喫し、英国の調停で講和になった。清仏戦争の目的は、達成したものの「戦勝」と呼べるかは疑問がある。ちなみに清は、虎の子海軍を対日用に備え、対仏戦に用いなかったことが、結果の敗北に繋がったという。この戦争により、清は近代化を図るも実らせられず10年後に日本に敗北する。
また、フランスは、戦況の悪さに、日本へ参戦を呼びかけたが、日本は参戦することなく終わった。日清戦争後、露・独・仏による三国干渉で、日本に圧力をかけたフランスだが、この頃既に、単独においては列強から転落していたのではないだろうか。

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清仏戦争

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タグ:列強国
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2011年02月01日

とりあえず、昔の海賊は「立派」としておこう

 我が家の近くに幼稚園があり、運動会が近くなると練習の音が聞こえてくる。その中で、毎年必ず流れるのが「かいぞく体操」なる曲。「俺たちゃ海賊!世界で一番強い!宝を探して七つの海をすすめ…」と、曲に合わせ、習った振り付けで踊る子供は見ていて楽しいのだが…続いて入るフレーズが、「立派な海賊になるには、力が強くなくちゃ、アカン…ガッツ!」。
 おーっと!立派な海賊?ソマリアの海賊が国際問題になっているのに、幼児期、海賊に立派な印象を刷り込んで大丈夫か?と、ここで妙に教育論者思考がはたらいた。 しかし、海賊=Pirates(パイレーツ)の名は、米国メジャーリーグをはじめ、結構使われており、やはり海賊は立派にしておかなければならない事情があったのだと、勝手に結論付けた。(海賊体操は、関係ないが)

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フランシス・ドレーク
エリザベスT世より私掠許可を受け取り、英国を潤わせた。
海賊→私掠船船長→受勲→海軍提督とスペイン無敵艦隊を壊滅させた「立派な海賊」だ。
キャラクター等に使われる「エル・ドラゴ」は彼の異名。


 本来、海賊は悪党であり、国家は自国の軍事力で海賊を制圧し、他国に対しても威厳を保つものであるが、スペインとポルトガルが世界を二分した大航海時代から、覇権が英国に移行する16世紀後半、スペインの力をそぐために英国は、海賊へ「私掠免許」なるものを大量発行し最大限利用した。私掠免許とは、個人船舶所有者が、許可料を政府に支払い、戦争に参加して拿捕した相手の財産を受け取るというもの。要するに、敵国の船を襲い掠奪する許可を与えるもので、更には掠奪品を国家が元締めとして、定めた割合で分配するシステムができ、海賊に投資するに及ぶ。軍事的には傭兵にも似るが、私掠船は、フルコミッションのビジネスといえる。女王陛下公認の職業「海賊」はゲリラ戦の如く、カリブ海で暴れ、疲弊していくスペインに代わり英国は世界覇権の座に着いた。ただ、1588年のアルマダ海戦でスペイン無敵艦隊を破って英国が主導権を獲ったイメージがあるが、それ以降も、スペインは制海権を維持しており、実際には、年数を掛けてスペインを衰弱させ、覇権交代を実現させた。

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1502年の世界地図。
スペインとポルトガルが、勝手に世界を線引きをして二分している。
欧州の中華思想か。


 一方、海洋国家ポルトガルは、大西洋、インド洋、東南アジアの制海権を得て、日本付近にまで及んでいた。種子島の鉄砲伝来がその例だ。そのため、東アジアでは、スペインよりもポルトガルの方が、交易などで縁が深い。そこへ、英国と同様に海洋へ進出するオランダが台頭。オランダもカリブ海でスペインを襲い、東南アジアでは、ポルトガルから掠奪をし、植民地(蘭領インドシナ等)を拡大した。オランダそのものが海賊といえる。また、台湾からオランダを駆逐した鄭成功もいわば海賊だ。海賊が歴史を作っていったのである。第二次世界大戦により、東南アジア諸国が解放されたが、植民地支配をした英・仏・蘭は、海賊によって列強の地位を得たわけだ。やはり彼らは、海賊を英雄にせざるを得ない。

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週刊朝日百科日本の歴史より資料引用
天正6年(1578年)木津川沖海戦の想像図。
織田信長が、鉄甲船を用いて、手を焼いた村上水軍(毛利水軍)を破った。
鉄甲船は、ポルトガル人が驚愕し本国に報告した。


 さて、日本には、「水軍」という存在がある。戦国後期、織田信長を悩ませた村上水軍(毛利水軍)は有名だ。水軍の来歴は、平安時代ごろから登場した海賊衆が、水上兵力となっていった。壇ノ浦の合戦や元寇で活躍し、戦国時代に入り、大名の家臣にもなった。
 生粋の海賊としては、倭寇がいる。前期は、日本人といわれたが、後期は混成だったという。戦国後期に海賊取締り強化が為され倭寇は消滅したが、もし、信長が、明征服を実行したら、倭寇は、取締りの対象から、英国のように私掠船団として重用されたかもしれない。
 歴史をみると悪党も一定の力を超えたら出世のチャンスがあったということだ。しかし、支配者となった者が悪党であると、一番、たちが悪い。

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タグ:海賊
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2011年01月31日

先人達が歩んだ樺太

 樺太は、北海道の北に位置する南北に細長い島で面積は北海道に匹敵する。歴史的には、北海道や千島の先住民族であるアイヌと、ウィルタ、ニヴフという北方系民族が先住しており、シナ大陸が唐の時代にアイヌによる入貢があったとされる。その後、元による朝貢の強要やそれに反発した反乱などを経て、新興の明と交易がなされた。
樺太に元の圧力が掛かっていた鎌倉時代、日蓮上人の弟子、日持上人が樺太へ渡り、布教を行ったといわれる。北海道で獲れる「ホッケ」は日持上人の「法華の坊さん」から由来するそうだ。なお、日蓮が、元寇で鎌倉幕府へ国難の警告を発したことは有名である。

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資料元wikipedia
樺太豊原市にあった王子製紙豊原工場
 

 鎌倉時代から室町時代にかけて、青森から津軽海峡を隔てた渡島半島(函館市のある地域)へ日本人が移住した。その地域を「和人地」と呼び、それ以外の地域を、アイヌ人が居住する蝦夷地といった。蝦夷地は、北海道以外に、千島、樺太も含まれる。
 日本が戦国時代に入る前の1457年、この和人地にある武士館へアイヌ人が、一斉襲撃をかけた。そこで後に蝦夷地を管理する松前藩の祖、武田信広が、武士をまとめ反撃に出て首領を討ち取った。
これにより、樺太アイヌ首長が、武田信広に貢物を献上し支配下になったとされるが、実際に、日本人が樺太に入るようになったのは、安土桃山時代、豊臣秀吉が、松前藩に対し蝦夷地の支配権を与えてからと思われる。江戸時代に入り、寛永20年(1644)年松前藩の所領地図に樺太が大きな島として記載(正式に島と確認できたのは、この後の間宮林蔵の樺太探検)。
なお、これ以前、徳川家康は松前藩に対し、シナ大陸で軍事台頭する女真(後の清)に警戒し、調査を命じている。

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資料:wikipedia
昭和初期の豊原市。後方に王子製紙らしき工場が見える。


 18世紀(1700年代)に入りシナ大陸を支配する清は、清国版図測量で、黒竜江河口の対岸の島(樺太)を確認している。この頃の清は、ロシアの東進・南下政策に立ちはだかる存在であったが、次第に形勢はロシアへ傾く。19世紀(1800年代)に入り、樺太は、日本とロシアとの間で領有を競うことになる。樺太や礼文、択捉がロシア人から襲撃を受けたことにより、江戸幕府は警備を強化し、前蝦夷地の民衆調査台帳を作成した。
1809年、間宮林蔵が樺太を探検し、島であることを確認。このときに、アイヌ以外のウィルタ民族の存在を知る。間宮林蔵は、その後、死刑を覚悟で鎖国を破って大陸へ渡り、黒竜江(アムール川)下流をロシアの動向と併せて調べた。この時点では、満州人が多く、ロシアの支配に至っていないことを確認している。

 19世紀中頃になると、帝政ロシア・東シベリア総督ムラヴィヨフが、極東に影響を及ぼすことになる。
 嘉永5年(1853年)ロシア海軍が、北樺太から入り、領有を宣言。長崎にて樺太・千島国境交渉を行うが決裂。翌年、日露和親条約で千島は、択捉までを日本とし、樺太は線引きしないことになった。ところが、安政5年(1859年)件のムラヴィヨフが軍艦7隻で品川(江戸)入りし、樺太全島をロシア領として威嚇したが、幕府は拒否。(黒船ではそうならなかったが)これとは逆に、清は、この前年に、ムラヴィヨフの懐柔と威嚇に屈しアイグン条約、2年後の北京条約締結により、清は、女真の故郷である外満州を失い、間宮海峡対岸は清の領土からロシア領になり、これが現在に至る。

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資料:wikipedia
豊原市西一条通、名称と上記写真から都市計画は、京都市を模していると思われる。


 明治8年(1875年)樺太・千島交換条約で、日本は、千島全島を領有する代わりに樺太を放棄した。日本にとって、最大の脅威はロシアの南下であり、樺太や千島よりも差迫る危険は朝鮮半島にあったことから、列強に半植民地となりつつある清から朝鮮を独立させるため、日清戦争となった。
その後、内満州の権益を得たロシアが朝鮮まで迫り、ついに、日露戦争となったが、明治38年(1905年)終結により、北緯50度以南を南樺太として日本の領土となる。

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資料:wikipedia
豊原市制施行記念祝賀行列、昭和12年と思われる。


 1917年、第一次世界大戦中に、帝政ロシアが崩壊、共産主義国家ソ連が建国。1918年、第一次大戦終結前だが、共産主義を懸念する欧米諸国はシベリア出兵を行い、日本も出兵の際、北樺太を占拠し、ソ連との国交樹立に併せ撤兵した。ソ連のレーニンは、日本に北樺太売却案を出したが、日本の国家予算の三倍に相当する額の提示に、断った。昭和12年(1937年)日支事変が勃発、2年後、欧州で第二次世界大戦が勃発した。日ソ間は、中立条約を交わしたが、昭和20年(1945年)8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し樺太へ侵攻(満州も同様)。
日本は15日にポツダム宣言を受諾し布告したが、ソ連は、北海道侵攻の計画をもって侵攻を止めず8月25日まで戦闘が続き、日本本土最後の地上戦となった。当時、日本の内地であった樺太には40万の日本民間人が居住し、侵攻したソ連兵は、略奪、殺傷、強姦を繰り返した。20日には、真岡郵便電信局事件、22日には、日本の引揚船三隻が、ソ連軍潜水艦から攻撃を受け、沈没した三船殉難事件が起きた。
 真岡郵便局事件は、『樺太1945年夏 氷雪の門』として昭和49年(1974年)に映画化されたが、ソ連の機嫌を損ねることを恐れ、まともな上映ができなかったが、製作から36年を経て昨年、劇場公開された。

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現在、日本国内で使用されている学習用地図

 「アイヌモシリは、アイヌへ返せ!」という論調はともかく、第二次世界大戦終結までは、南樺太および千島列島は日本領土であったが、ソ連の武力侵攻後、今日に至るまでロシアが実効支配をしている。現在、日本の地図は、北方四島を日本領とし、南樺太と他の千島列島は、地位未定地としている。これは、ソ連は、サンフランシスコ講和条約に調印しておらず、国際法では地位未定地となることを示しているが、残念ながら、世界常識は、力関係がもっとも効力があるのが現実だ。
領土・領海は、それを守るだけの担保が必要であることを列強から国土を守った先人達は教えている。

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タグ:樺太
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