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2011年01月29日

オランダを駆逐した日支ハーフの鄭成功

 日露戦争は、東洋人の日本が、白人の列強ロシアを打ち負かしたとして、多くのアジアの人たちに光明をあたえた。また、第二次世界大戦では、インドシナにおいて日本軍により欧州列強が駆逐されるところを見た現地の人たちが、痛快に思ったという話を多く聞く。また、欧州戦においては、枢軸国のハンガリーやブルガリアはフン族の末裔といわれ、彼らの間では、ナチスドイツではなく同郷である東洋の日本こそ枢軸国の盟主となるべく意識していたという話を聞いた事がある。白人に対し、東洋の意地が、日本に感じられたのだろうか。

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台南市にある「延平郡王祠」に鎮座する鄭成功像

 一般的には、アジアを植民地化する欧州列強を駆逐した東洋人が日露戦争での日本と思う人も多いが、実は、それ以前に列強を駆逐した東洋人がいる。台湾からオランダを追い出した鄭成功だ。
 寛永元年(1624年)当時、平戸(長崎県)で貿易商として活躍していた、明国福建人の父、鄭芝龍と肥前平戸藩の武士、田川七左衛門の娘の母、松との間で生まれた。日本生まれの日本・福建ハーフである。父は、朱印貿易を行いながら東南アジア一帯の貿易ルートを構築した福建人、李旦の跡を継ぎ、船団を武装化するなどした。平戸から台湾へ拠点を移したが、台湾南部へはオランダが入植をはじめており、家族で大陸へ移住。

 1644年、明が滅亡。鄭父子は、亡命明政権と共に清に対する抵抗を行うが、父、鄭芝龍は亡命政権に将来を見込めず、清に降伏。鄭成功は父の勢力を引き継ぎ、北伐軍を編成し、南京を目指すも、大敗。
 1661年、勢力建て直しのため台湾へ上陸し、当時、台湾を支配していたオランダの拠点、ぜーランディア城(台南)を陥落し、オランダを台湾から駆逐した。
 鄭成功は、清への反抗を志したが、翌年、病死。息子の鄭経が、その遺志を継ぎ、台湾を統治した。だが、台湾独自の政権を打ち立てたたものの「反清復明」であることから、清にとっては、抵抗勢力であり、1681年鄭経死去、1983年、清の攻撃に降伏した。

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延平郡王祠は、日本統治時代は、鄭成功を祀る「開山神社」と呼ばれた。
社殿は、国民党によって解体され、鉄筋コンクリートの廟になっている。
正面に鳥居があり、その上に国民党の青天白日があることに不快感を示す台湾人は少なくない。


 鄭氏による台湾政権は、江戸幕府や英国から正式な貿易がなされ、独立国家としての地位を得ていたが、清からは「亡命明政権」とみなし清の版画に台湾が組み込まれた。この図式は、今日の中台関係に似る。国共内戦に敗れた国民党が台湾に居座り、大陸反攻を目指し「ひとつの中国」に拘ったことが、中華人民共和国が、台湾を自国の領土と主張する根拠を与えている。(現在の台湾は、日本が放棄したことにより何処にも属していない)
ただ、鄭成功の場合は、台湾開発始祖という点で、日本統治時代と同じであり、蒋介石は、腐敗と破壊を持ち込んだ災厄として、台湾人の評価は、鄭成功が最高なら、蒋介石は最低である。

 なお、清との戦いで、鄭芝龍・鄭成功父子は、大きな軍事力を持つ日本へ度々、軍事支援要請をしたが、鎖国を進めていた江戸幕府は、武器輸出の範囲で収め、直接的な軍事支援は行わなかった。これが、徳川家康の頃だったらどうなっていただろうか。家康は、明との関係を修復させ、女真(清)の軍事行動を気にかけていたことから、秀吉の朝鮮出兵より正当性があるとして、応じていたかもしれない。意図したものではないが、徳川将軍二世代の違いは、清が有利になるようにはたらいたことになる。

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鄭成功の名を冠した国立成功大学には、日本統治時代に昭和天皇が皇太子の頃、植樹したガジュマルの樹が今も保存されている。

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タグ:台湾
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2011年01月28日

「タヌキ」は偉大なり

 タヌキ親父といえば、日本人の多くは「徳川家康」を思い浮かべる。
「狐と狸の化かし合い」という言葉があるように、狡猾な人を指す。個人的には、その意味合いからすれば、狸よりも狐の方がイメージに合う気がするが、男はタヌキ、女はキツネと使い分けると、何となく合致する。ただ、徳川家康の容姿からすれば、キツネ親父では似合わない。また、「狐憑き」という言葉があるように、稲荷神社で構える狐の方が、畏怖があり、より霊的なものに使い分けられたのだろうか。

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三方が原で武田軍に敗れたときに、若気の至りで突っ走った自分を戒めて描かせたという有名な徳川家康の肖像画。
家康は、生涯で敗れたのはこの一戦のみだ。


 小生が子供の頃、NHK大河ドラマがまだ、2作目くらいだったと思うが「太閤記」が放送された。そのせいもあってか、三英傑の中では、秀吉の人気が突出し、徳川家康は全く人気がなかった。この頃は、プロレスで力道山が、悪役外人レスラーを「空手チョップ」でやっつけることに大人が熱狂した時代。正義は常に正義であり、悪は常に悪という単純な価値観の時代でもあった。しかし、時代と共に価値観は多様化し、徳川家康および、タヌキ親父の評価も変わってきている。

 政界を揺るがした「東京佐川急便事件」を記憶している人も多いと思う。佐川急便は、創業者の故佐川清会長が、全国の運送会社を業務提携の名の下で支配下に置き、拡大してきた。東京佐川急便の故渡辺広康社長も自分で築いた運送会社を業務提携という名でとられた側の一人である。そこで政界や裏社会での繋がりを強化し、佐川会長を超えようとした。そのとき、渡辺社長は、腹の中で「アンタ(佐川会長)は、織田信長だ。今は、いい気になっているが、いずれ、私が上に立つ。私は徳川家康になる。」と誓ったとか。結果は、闇献金・不正融資で逮捕となったが、佐川会長の仕掛けた罠ともいわれる。
好例ではないが、徳川家康を拠所とした例だ。目的を達成する知恵は、徳川家康であり、タヌキ親父であることが、必要なのだ。台湾の李登輝元総統も国民党という独裁体制の中で、家康のごとき忍耐強さで、民主化を成し遂げた。

 そのタヌキ親父の代名詞、徳川家康が、元和2年(1616年)“タヌキ”の成果を実らせ、生涯を終えた。享年75歳、タヌキ親父というより“タヌキ爺”だった。その年、海を隔てた満州では、女真を統一したヌルハチが、後金を建国。後の清朝初代皇帝が誕生した。個人的にヌルハチは、どこか織田信長と通じる印象がある。そして、その子供、ホンタイジとドルゴンの兄弟は、忍耐の家康とは、ニュアンスは違うが、戦略的に「タヌキ」ぶって大清帝国をつくったといえるのではないだろうか。

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清第2代皇帝ホンタイジ。朝鮮を明から断ち切らせ、清へ冊封させた。

 繁栄は、永遠には続かない。長年の繁栄は、皇帝に堕落を生じさせ、滅亡へ向かう。明の万暦帝は、まさにそれがあてはまる皇帝だったようだ。万暦帝のとき、経済的な絶好調から、豊臣秀吉の朝鮮出兵などが起き、ヌルハチにとって天の助けか、明が、そこまで構ってられないうちに勢力を伸ばした。明は、栄枯盛衰をこの万暦帝で経験している。
 しかし、明には袁崇煥という、優れた将軍がいた。明も秀吉との戦争経験から、近代化をしており、破竹の勢いで迫るヌルハチの女真軍を大砲で迎え撃ち、敗北させた。この数日後、ヌルハチは死亡した。
 女真軍に立ちはだかる明の将軍、袁崇煥の存在に、ヌルハチの第8子、2代目皇帝ホンタイジは、明の宦官を買収し、袁崇煥が謀反を起こす噂を流した。
無能のトップを持つ国の悲劇か、その噂に反応した万暦帝は、よりによって、強大となった女真=満州軍から明を守っていた将軍、袁崇煥を処刑してしまった。これで、満州軍には、怖いものが居なくなったのだが、明を滅亡させたのは、農民反乱軍の李自成だった。 李自成は、明朝を滅びした後「順」を建国し、皇帝を名乗った。そこで、清の最前線で対峙していた明の軍人、呉三圭が、主の敵を討つために、敵であった、ホンタイジの異母弟、ヌルハチの第14子、ドルゴンに援軍を求めた。
ドルゴンはそれに応じ、李自成軍を打ち破り、北京に入るや、明朝最後の皇帝、崇禎帝を手厚く弔った。順王朝は40日間の短命に終わり、「明を滅ぼした、賊軍を殲滅し、敵討ちをした」という名目で、清は、ちゃっかりと、シナ大陸全土を支配することになった。

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摂生ドルゴン。兄が皇帝、その後、甥が皇帝であることから親王になる。
実質的に清による中華支配を実現した人物。




 話を戻すが、戦国の世に終止符を打った家康は、大陸を攻めた秀吉とは逆に、ヌルハチ率いる女真の軍事行動を警戒した。江戸時代となってから女真との衝突はなかったが、278年後の明治になってから、清と合間見え、間もなく、清は滅亡した。
江戸時代=徳川時代は、清より少し早く1603年に始まり、265年を経た1868年に明治となった。清王朝は、1636年に建国し、1912年に滅亡した。その間276年(内、中国支配は268年)。ヌルハチの後金から数える清の歴史は、日本でいう、安土桃山時代に江戸時代を足した感じだ。安土桃山が、満州での後金時代、江戸時代が、中国を支配した清朝時代といった印象を受ける。将軍と皇帝なので、一概に比較はできないが、それにしても、徳川家、愛新覚羅(清王朝)氏、共に長期に渡り、政権についていたものだと思う。ご先祖が、タヌキになって努力した恩恵だろうか。

タグ:狸ジジイ
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2011年01月26日

そのとき、歴史が動…かなかった

 1592〜98年にかけて秀吉が行った、文禄・慶弔の役(朝鮮出兵)は、戦国の世が終わる直前に日本軍が、海外へ出兵した一大事だが、小説等々、あまり取り上げられることがない。そういうと、贖罪意識云々という意見が、出てきそうだが400年以上も前のことなので、歴史として淡々と考えてみたい。

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資料:文禄の役・釜山城攻略(wikipediaより)

 文禄・慶弔の役は、国家間での勝敗は無く、結果として、日本は、明征服を企てた秀吉の死によって出兵の目的がなくなり撤兵し、明と朝鮮は、侵攻に対し防御しきった。秀吉一人に極東地域が振り回され、多大な損耗をしたが、その前後で大きな変化が起こらなかった。
戦が、ひとつの分岐点になる歴史を題材にした小説などは、「そのとき一人の人物の判断が、明暗を分け、歴史が、こう変わった・・・」という展開がある。この戦は、それがない。要するに「そのとき!歴史が動かなかった」わけで、そうなると作家にとって評価は低くなり、扱い難い題材になる。(韓国は、そうでもないようだ)
 しかし、この戦争は、直接的に歴史のターニングポイントにならなかったが、ジワジワとその後に与えた影響は多いのではないだろうか。

【日本】
 豊臣秀吉とは、戦で負けたことのない強大な大名、徳川家康は、諸大名最大の石高ながら、朝鮮派兵に参加していない。理由は、秀吉が家康を遠ざけるため関東赴任を命じたため、文禄・慶長の役では、家康の出陣は九州までであった。「明」征服は、信長の構想からであることから朝鮮出兵も「もし信長が生きていれば」という想定の対象になるが、信長と共に戦国を駆け抜けた三河武士、徳川家康がこの時、もし、朝鮮出兵に参加したなら、それはそれで違う結果になったかもしれない。
この朝鮮出兵により豊臣家の政権基盤が揺らぎ、無傷の家康が、天下を取ることになった。この展開は、やはり歴史は、人知を超えていると思う。

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豊臣秀吉

【朝鮮】
 ある意味、勝手にやって来て去った秀吉の遠征軍であったが、戦場となった朝鮮では、日本に対する遺恨と唐辛子が残った。 韓国料理の唐辛子文化がここからはじまった。遺恨については、朝鮮はひとつの国家ではあるが、明の属国でもあり、国内では両班と呼ばれる支配層の苛烈な取立てなど、国民感情は、内政的に「恨」を培養するところがある。そこに秀吉による侵攻があり、その戦禍が、更に国力を疲弊させ、治安は悪化する。
また、建前は、秀吉遠征軍の朝鮮侵攻を明が阻止したことになり、中国外交における属国化が更に進んだ。女真を野蛮人として嫌った朝鮮であるが、明滅亡後、(間に順があるが)女真が建国した清に対して属国となったというか、ならざるを得なかった。日清戦争直後の朝鮮の状態は、この従属関係にも起因する。「これも全部、秀吉が(日本が)悪い!(良くはないだろうけど)」となったのだろうか。

【明】
 さて、秀吉が明征服を目指したものの、秀吉の死去により、戦争継続はならず、自国領内まで侵攻されなかった明ではあるが、同時期に三つの戦争が起きた。これを「万暦の三征」と呼び、秀吉遠征軍との戦いは、「朝鮮援兵」とされる。この三つの戦争の内、抜きん出て戦費が課さんだのが、「朝鮮援兵」であり、もうひとつの「楊応龍の乱」は、これに便乗し、反乱を起こしたものだ。
 かように朝鮮出兵は、明財政に大打撃を与えたが、更なる危機を誘発したのは、満州・遼東半島に配備した兵力を対秀吉軍に向け、朝鮮に回したことにより、女真(満州)族の長ヌルハチの強大化に機会を与え、後に女真から攻撃を受けるようになる。丁度、蒋介石が毛沢東を追い詰めきれず、共産党を強大化する機会を与えたのと似る。 結果的には、ヌルハチを間接的に助けたのが、秀吉の朝鮮出兵であった。そのとき、歴史は動かなかったようにみえたが、その後の中国史に大きく影響を与えたのは確かである。

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統一女真族の長、清朝初代皇帝ヌルハチ

 なお、ヌルハチが建国した、後金=清は、その後、子供達により、シナ周辺一帯を支配下に置き、シナを支配したものとして唯一台湾を領有し、大清帝国を築いた。その清が、支配した地域を領土と主張する中華人民共和国により、今日、南モンゴルやウイグル、チベットの民族が弾圧され、台湾は併呑の脅威に晒されている。
歴史ロマンというが、その系譜上にある現代では、そうは言っていられない。

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タグ:戦国時代
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2011年01月25日

皇帝とは違う日本独自の君主

 覇者は、国の平定を維持するために称号を持つ必要がある。最高位の称号は、それを保障する「広義での力」があって成立する。(「力=悪」と解釈しないように)
その最高位が、君主であり、一般的には、「皇帝」=「emperor(エンペラー)」である。ただ、言葉は人類が、模索しながら完成させていくために、君主は、国によってニュアンスに違いがあり、英国では、「Her Majesty The Queen」として、女王陛下エリザベス2世が君主となる。
現在、世界で「エンペラー」と呼ばれるのは、わが国の天皇陛下のみと思われる。

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秦の始皇帝像

 紀元前221年、中原(中国)において燕・斉・楚・秦・韓・魏・趙の7カ国による戦国時代を勝ち抜いた、秦王「嬴政(えいせい)」は、制圧した諸国のトップと並列する「王」より上位とするため、天を用い「天皇」と「帝」の造語「皇帝」とした。そこで、最初の皇帝の意で「始皇帝」と名乗った。いわゆる「秦の始皇帝」である。 以降、この地域で覇者となった者は、民族問わず、皇帝を名乗った。また、それら「中華」の皇帝は、周辺国の「王」を指名する冊封を行い、受けた側は、中国王朝の保障を背景に、その地域を治めた。
 そのような東アジア事情から、聖徳太子は、隋皇帝、煬帝に「日出ずる処(倭)の天子、書を日没する処(隋)の天子に致す」と対等であることを示した。ちなみに日出、日没するとは、東方、西方という意味で、日没=斜陽・凋落という意味ではなかったが、隋は、間もなく没した。

 ヨーロッパでは紀元前27年、ガーイウス・ユーリウス・カエサル(シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」)が、共和制の中で初代ローマ皇帝となった。エジプト女王にクレオパトラを据えたが、これも冊封か。 面白いことに、唐などのシナ王朝では、ローマ帝国を「大秦」と表現したそうだ。「秦」からきたのだろうか?

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フランス革命:ルイ王朝が倒れた。あの「ベルサイユの薔薇」の時代だ。

 第一次世界大戦でドイツの敗戦が濃厚となり亡命した、カイザー・ウィルヘルム2世の「カイザー」は、カエサルから由来する。ヨーロッパでは、今でも王家が存在するが、歴史的に国家間での婚姻などが行われ、形式では、日本でいう「大名」に近い。皇帝は、自らの失政や、民主主義、更には共産主義のように極度に平等を唱える思想が台頭し、20世紀に入り、次々と消失していった。

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帝政ロシアを倒し、世界初の共産主義国家ソ連を建てたレーニンの演説。
しかしソ連は、一世紀を経ずして解体した


 日本では、武家政治の江戸時代が終わるまで、朝廷と同時に将軍家が存在した。政治を任される将軍家も血統の継承があったことから、欧州からみれば、エンペラーが二者存在することになり、表記が当を得られなかった。やはり、文化的背景の違いから、エンペラーを天皇と訳すには限界がある。
 古代日本では、天皇を「スメラミコト」と呼び、これが、本来の称号になる。その後、漢字文化に合わせて「天皇」とされたといわれる。日本神話は、天上におられるのは「神」で、降臨すると「命(みこと)」となるという。天皇は悠久の歴史を経て、万世一系であると同時に、霊的継承が条件となる。今上陛下も大嘗祭を経て、国内外に、御即位宣言されたことを記憶する人も多いはず。性格的に海外では、国家元首よりもローマ法王の方が、天皇に近い。ここに「皇帝」とも「エンペラー」とも訳しきれない、唯一無二の存在が「天皇」ということになる。

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【神武天皇】

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タグ:君主
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2011年01月23日

征服の正当化「易姓革命」

 支那大陸で王朝が変わることを「易姓革命」という。易姓革命は、「天命革まる」つまり、天の意思で王朝を変えることを指し、それが、皇位を自ら譲るか、武力で追放や滅亡という形で現れる。一般的な概念では、皇帝は血統の断絶で滅ぶが、易姓革命は「徳」の断絶である。「徳」を失い、皇帝の資格がなくなったというものだ。

 儒教の教えだが、宇宙の法則、大自然の理を説く佛教にも通ずるものがある。人類の歴史で生じる新陳代謝であろうこととして、如来(佛)の御意趣なのだろう、と思う半面、「易姓革命」の理屈は、征服者にとって、都合よく解釈されているように思う。文化や価値観の違う異民族による、覇権競い合いの結果を、共通の理由にできる、便利な表現だ。

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女真を統一し後金を建国したヌルハチ。
満州族王朝「後金=清」初代皇帝で、最後が「ラストエンペラー」の愛新覚羅溥儀。
ヌルハチの子ホンタイジが「清」として「明」に代りシナ大陸を支配下に置いた。


 血統に関係なく皇帝になれるということは、良く言えば、「万人平等にチャンスを与える制度」だが、勝者による自己申告制は、いたって原始的である。また、これに「徳」を加えると、徳=勝者ともいえる。覇者になるだけの器はあったのであろうが、天の「徳」と支配者のいう「徳」は、一致するとは限らない。むしろ、一致しないほうが多いであろう。
もっとも、今でも国際社会では、強い者の都合で正義は変わるので、一概に否定もしない。
フランス革命やロシア革命は、市民蜂起により王朝が滅亡し、全く違う社会制度ができた。
 辛亥革命は、漢民族を支配する、異民族の王朝「清」に徳が断絶したことで、漢民族は、国土と主権を奪回した民族解放で、フランスやロシアのような市民革命とは幾分か趣向が違う。
更には、満州民族から漢民族が、国土を取り戻すも、蒋介石や毛沢東のような平民が、独裁者として君臨するところは、今までの皇帝政治と同じであり、現在の中国共産党もまた、一党独裁体制を堅持している。己の所業を正当化する意味で、「易姓革命」の現代風の言い回しが、「人民共和国」か。

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【文化大革命】死者は、2000万とも3000万ともいわれる。

 シナ大陸での王朝交代は、次なる王朝が、前王朝文化を破壊してきた。前支配者の徳が断絶したのだろうが、やっていることは「因果応報」、前支配者に、もともと徳があったかが疑わしいし、新たな支配者に徳があるのも疑わしい。
フランスやロシアにみられるように、革命には、必ず、「破壊」がつきまとう。これは、易姓革命も同様だ。いずれも半端な破壊ではなく、戦争以上の破壊と殺戮を引き起こすところは、さながら地獄絵といったほうが良いであろう。

 「明治維新」を革命という人がいるが、日本では革命は起きていない。歴史を重ね、一貫して天皇が存続し、今日に至っている。天皇は、国民を代表する祭祀者であり、支配欲を持ち、自己申告で「皇帝」となった、シナ大陸歴代皇帝とは性質が異なる。

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タグ:易姓革命
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