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2011年01月21日

「戦国時代」を海外へ“持出し”した、豊臣秀吉。

 支那の征服を目指すのは、地元の漢民族と、北方の蒙古や女真などが常連だが、例外としては、中華帝国が明朝の頃、日本がそれに加わった。戦国武将の豊臣秀吉である。
 朝鮮半島を舞台に、途中交渉を含め1592〜98年の間、日本の秀吉による遠征軍と明・朝鮮連合軍が戦った。朝鮮では「壬辰倭乱」などと呼ばれ、日本では、「文禄・慶弔の役」「朝鮮出兵」という。

 戦国時代の始期と終期には、いろいろな見解があり、「応仁の乱」から、織田信長の足利義昭追放までの約100年が通説のようだ。しかし、合戦はその後も絶えず起きていたので、理屈抜きにすれば、戦の火種を根絶やしにした江戸幕府樹立が、終結のようにも思える。
 これを加算して130年近く戦火を交え、疲弊せず新政府を樹立した当時の日本は、世界屈指の強大な国だった。
 この戦国後期に風雲児、織田信長が表舞台へ登場したことで、乱世に終止符を打つ時期が間近になった。戦国の世、治世は力で他を圧倒し、出来上がる。信長は、破竹の勢いで天下統一に迫り、次なる目標は支那大陸征服に向いていたが、天下統一直前にして、身内のテロに倒れた。
 信長没後、天下人になった豊臣秀吉は、支那大陸征服の構想も信長から継ぎ、「戦国の世」を、朝鮮半島まで拡大した。

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 一方、1368年、元を倒し北走させ、中華帝国となった明は、最大の脅威であったモンゴル(北元)と攻防を繰り返したが、200年の歳月を経て、脅威の対象は、その後、「清」となる、女真族(満州族)となった。
 沿岸で暴れる倭寇(この頃の倭寇は、日本人は少ない)もまた、国家を不安定にさせる悩みの種であったが、倭寇自体が明を征服しようとする勢力ではなく、国家存亡に関わる警戒は、伝統的な北方民族に向けられており、まさか、日本が大中華帝国を征服しようなどとは思ってもいなかったのだろう。
 明から冊封される朝鮮は、中華帝国に逆らわない分、概ね太平の世であったせいか、やはり、秀吉からの侵攻への対策を真剣に考えていなかったようである。
 しかし、豊臣秀吉は、紛れもなく歴戦を戦い抜いた、当時アジア最大の軍事力を持つ独裁者だった。
 明を征服するため、朝鮮に「道をあけよ!明まで先導せよ!」と迫る秀吉。しかし、明の従属で存続してきた朝鮮が、簡単に言うことを聞くはずがない。
 この時代、日本と明・朝鮮、双方があらゆる意味で相手に対する情報不足だったのだろう。最初の戦役後、交渉があり、調整役が穏便に持っていこうと画策したのが逆効果となり、激怒した秀吉は、二度目の出兵を行った。この中で、明は、秀吉に日本国王の称号を与えようとした。王は、天子(日本で言う天皇)の臣下になる。朝鮮の李王朝もそうであるが、要するに明は、秀吉を日本国王として、日本を冊封しようとした。
 征服しようとしている相手から、「光栄に思え、朕の下につけてやるぞ」と言われたことになる。
 しかし、二度目の戦役中に秀吉が他界し、戦争の目的がなくなり戦役は終息した。
この戦いを明は、多大な犠牲を払ってしても自分達(明・朝鮮)に勝算がなく、秀吉の死で終息した。と結論付けたようだ。
また、最初から支那征服を目的とし、実行した日本人は、歴史上、秀吉のみだろう。
 その後、明は、日本の実権が、徳川家康になったことを確認し、和平となった。戦国時代の終結が、明にとっても和平であったわけだ。
 明・朝鮮にとっての災禍だった秀吉の朝鮮出兵は、明にとって、更なる災禍の元でもあった。
 秀吉による侵攻までは、女真族を警戒し、日本に対し油断していた。しかし、実際にやって来た日本軍は、予想に反し、強大な軍隊だった。
 明は、日本との戦役に気をとられ、今度は、女真への警戒に気がまわらず、徳川との和平後は、女真の圧力に悩まされることになる。

一回目の出兵である文禄の役では、加藤清正が、朝鮮半島を北上、満州に入り、女真の戦力を試す目的で、女真の城を陥落した。その後、女真の報復攻撃に対し、終始優位であったが、不要な被害を避けるために撤退した、といわれている。・・・ということは、日本の遠征軍は、歴史的に支那の覇権を競い合う両民族へ攻撃したことになる。戦国時代ならではの感覚か。
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【資料:wikipediaより】
 また、日本から攻撃を受けたことで、女真のヌルハチは、明へ支援を申し出たが、明は支援を受け入れなかったという。もし、受けていれば、その後の支那大陸は違った歴史になっていたかもしれない。
 
 徳川幕府の日本と和平が成立したものの、その後、明は滅び、次の中華帝国は、女真改め満州族の「清」となった。しかし、徳川幕府は、すでに鎖国をしており、日本が、清との国交を持ったのは明治になってからであり、朝鮮を巡って日清戦争が起きた。これも因果か、女真族と日本との戦いである。
結局、海洋国家の日本と大陸国家は、合わないということだ。適度に付き合うのが丁度良いのは、現代を見ても分る。李登輝さんのいう「あんたはあんた、私は私」である。

 話を朝鮮出兵に戻すが、陸上戦において日本は終始優位であったが、海上戦では、苦戦を強いられた。
しかし、日本では、過去に、天下統一を目指す信長の「鉄甲船」なる大型軍艦建造の技術や経験がある。鉄甲船は、鉄板で囲われた船体は、火矢を防ぎ、大砲を装備して、毛利水軍を撃破した。
海洋国家のポルトガル人が、日本に、このような船があることに驚いていることが、報告されているのだが、それだけの海上戦を経験しているにもかかわらず、戦果をあげられなかったのは何故だろう。

 ここに日本国内での事情、こと、信長と秀吉の違いが出てくるようだ。秀吉は、天下人となって、「刀狩令」と「海賊法度」を出した。理由は、農民や猟師らの武装解除であり、農民蜂起ができないようにしたわけである。
 自己の既得権益を守るために、秀吉自身の経験が、次なる秀吉の誕生を恐れたのだろうか。
 これは、明を悩ました倭寇に規制をかけたことになり、明にとっては、非常に有難い話だ。
 この処置は、平時なら国際間の信用もあり、当然の処置だが、時は、明に戦争を仕掛けようとしている矢先のことである。これが、信長だったら、その地域に長けた海賊である、倭寇を最大限活用したであろう。

 さて、多くの人が考えることだが、支那大陸征服をはじめに考案した信長が、本能寺の変で討たれること無く、天下統一を果たしたなら、その後、どうなっていたのか、つい想像したくなる。
 本能寺の変がなかったら、別の何らかの形で同じような終わり方をしただろうと思う。本能寺の変があったうえで、討たれなかったら、前述のように倭寇を活用し、陸・海ともに優位に運び、信長が、明を滅ぼした可能性は高い。そうなると、女真も支那への侵攻どころか、自分たちの満州死守に回ったであろう。地球が丸いことを理解した信長は、更にその先に興味を持ち、いったい、どこまで行ってしまっただろうか?

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2011年01月18日

朝鮮も中国に楯突くぞ!

 朝鮮文化に「恨(ハン)」という感情?がある。以前、留学生の日本語による弁論大会の一次審査を引き受けたが、私の担当は韓国だった。
 多くの作文を受け取り、読んだところ大半の作文に「恨」「恨の文化」というワードが出てくる。
 文字のイメージから、ある程度の想像はできるが、本当の意味が分からないので、在日韓国人に聞いてみたが、「在日(韓国・朝鮮人)では、本当の意味は、分らないと思う」という。抑圧と屈辱の状態が世代を超えるほどに長期に渡ることで、生じてくるものかと思うが、あれから20年が経ち、南北緊張状態ではあるが、韓国は先進国として、生活も日本と同水準にある。
 そうなると、前述の在日韓国人の言葉からすれば、韓国人にも「恨」の本当の意味は、分らなくなってきたのではないかと思うが、実際はどうだろうか。

 異民族からの屈服・服従を余儀なくされて「恨の文化」が、形成されたという見方がなされているが、そうなると「恨=弱い」という印象だが、長い歴史の中では、中国の言いなりばかりではない。 満州と朝鮮半島は、大雑把にいえば同系であり、本来、強い民族のはずではないかと思う・・・ということで、朝鮮は、こんなに強かった例題を拾ってみた。

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【上から高句麗・新羅・百済】

 聖徳太子が隋の煬帝に送った国書「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」に、中華(支那の自称)の暴君、煬帝は、東夷の島国が対等に天子を名乗り、怒り心頭であったが、高句麗に手を焼く隋は、我慢(?)して日本との友好関係を優先した。
 自称中華は、例により周辺へ覇権を行うも、高句麗はよく戦い、隋滅亡の最大要因となった。
 高句麗、あっぱれなり!

 朝鮮三国時代、新羅は、自称中華の「唐」と同盟を結び、高句麗と百済を破り(百済を支援した倭国軍も破った)、朝鮮半島を統一した。
しかし、外国の手を借りての統一は、リスクが高い。ましてや相手は、尊大な中華帝国。
 案の定、唐は朝鮮半島を支配しようとしたことから「羅唐戦争」となり、新羅は、唐を朝鮮半島から駆逐した。しかし、戦争中も唐への朝貢を続けていた。いくら新羅が強くても、唐を征服する発想は無かっただろうから、戦後の付き合いを視野にいれてのことだったのだろうか?新羅、強かなり。
加筆するが、この頃、新羅人が「新羅が強くなりたい」と熱田神宮から、草薙の剣を盗んだ(コラッ!)事件があった。

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【チンギス・ハーン】

 他国による完全な抑圧の歴史は、高麗の「元」への服属が、はじまりと考える。それまでは、中国や満州を支配する周辺国家と朝貢外交をして、バランスをとっていた。
高麗が建国した頃は、中国大陸は戦乱から宋が統一する兆しが出てきた時代。
 高麗は、北部に満州・南モンゴルを支配する「遼(契丹人)」から再三攻撃を受けたが撃退し、講和となる。契丹は、その後、西方へ向かい、女真族が台頭。高麗は、女真族の脅威から長城を建設し、防衛を図る。「天高く馬肥ゆる秋」は中国の話だが、朝鮮半島にもあてはまる。
 女真族は、中華帝国を目指し「金」を建国。契丹の遼を滅ぼし、北宋をも滅ぼした。朝貢外交をする高麗は、相手が複雑化して大変である。
 金が南宋と対峙している頃、モンゴルでは、チンギスハーンの蒙古が台頭。南下し、金は滅亡(女真族は、長い歳月を経て「後金・清」となって再び、中華帝国を目指す)。
 金が、宋へ向いていた頃は、平穏が続いた高麗だったが、金の滅亡により、蒙古軍が高麗に侵攻し、高麗は、徹底抗戦をする。
 その後、蒙古から、高麗が臣下となるよう要求がくるが、拒否し、再び、蒙古が侵攻したが、高麗は、このときも徹底抗戦となり、続くこと約30年。
 中華を制覇した蒙古にこれだけの期間、抵抗したのは凄いことだ。

 しかし、持ちこたえられたのもそこまでだった。近隣で一緒になって、蒙古を撃退できるだけの勢力も存在せず、服属しか道は無かった。
 抑圧と屈辱の中、民族の存続をかけて自ら、元寇となったのだろう。
 これ以降、支那大陸の覇者は、明、そして清となる。朝鮮半島は、高麗が滅亡し、李氏朝鮮となるが、蒙古服属以前の状態に戻ることはできなかった。
 日清戦争後、冊封から解放されるが、長年、支那大陸の覇者の臣下で生きてきた朝鮮と、列強の脅威に対抗するために近代化した日本とでは、「冊封」に対する受け止め方が、かなり違うように思う。不安定状態の結果、併合の道を歩んだが、高麗が“元”に服属する以前の状態で国家が存続してきたなら、「恨の文化」もなく、当時の極東情勢に対し、方向性を共有することができたのではないだろうか。

 現在、韓国には、日本と同様、米軍が駐留し、地位協定も存在する。しかし、れっきとした軍隊を保有している。
 中華人民共和国が核保有をしたときの日本に対する米国の見解が興味深い。――日本にとって、格下の中国が、核を持ったことにより、日本が核保有する可能性がある――というもの。
 「中国は格下」「核保有」、本当に日本が、そうならば痛快だ。しかし、実際には、占領政策による、骨抜きの進行が、予想以上に早かったのか、日本で核保有議論などタブーであった。
 それどころか、いまや中国様さまである。米中に朝貢・冊封体制だ。
 日本の動向を心配した米国だったが、現実に、中国の核保有に対抗し、核開発をしようとしたのは、朴正煕、率いる韓国だった。朴正煕は、米国の要求を呑んで、韓国軍をベトナムへ送り戦っている。「元寇」に似た図式だが、それでも、中共に対抗するために独自で核開発をしようとしたところなど、隋に楯突く、高句麗を連想する。
 さすがに、韓国が核保有すれば、韓国と敵対関係でなくても、日本も持とうとしたのでは、ないだろうか。韓国によって、東アジアの状況が大きく変わっていたかもしれない。
 一説によれば朴正煕が、暗殺されたのは米国の言うことを聞かなかったから。台湾の蒋経国が、長生きしたのは米国の言うことを聞いていたからとか・・・定かではないが、なるほど、そうともとれる。

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【故朴正煕韓国大統領】

 さて、私たちは、日本の義務教育で朝鮮半島は、かつて「高句麗」「新羅」「百済」という国があったことを習ったが、中国は、高句麗を中国史としている。
 高句麗に似た、勢力図を持った「渤海」は、中国史よりも朝鮮史に近いと思うが、満州史と言った方があてはまる。高句麗は、朝鮮史、満州史の両方でよいと考える。
 中国は、大清帝国の領土を継承すると勝手に言っているが、清は、中華風(料理ではない)にいう、北伐・東夷の満州民族が、南下し、中国全土を支配したわけで、もともと満州は中国ではない。また、歴史的に中国という定義そのものが曖昧である。
 それが、現在、中国が内満州を支配しているからか、いろいろ理屈をつけて、高句麗を中国の地方政権とか一部という言い方で中国史としているようだ。

 李登輝台湾元総統は、中国を「美人をみれば、『自分の女房』という国」と表現したが、全てにおいてあてはまる。

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2011年01月17日

満州民族の行方

 「中国4000年の歴史」を主張するのは、中国共産党が支配する今の中国の自説である。世界四大文明のひとつとして、この地域に長い歴史があるのは事実として、「あー、そうですね」と、ある程度、理解してあげる程度で十分だろう。

 さてこの地域の歴史は、中国本土の民族を漢民族として考えれば、「元」や「清」のように、長年、外部勢力が支配していた時代があり、漢民族による国家の連続性はない。
 現在は、中華人民共和国となっているが、漢民族支配で計算すれば、中華民国成立1912年から間もなく100年。それ以前の漢民族国家は、明で1368年〜1644年の276年間。日本の江戸時代より少し長いくらいだ。但し、江戸時代は日本国史上の政権のひとつであるが、明は、国の一生涯である。

 今の中国は、血統からなる皇帝は居ないものの、一党独裁体制は皇帝型政治と変わりはない。先は長いが、あと180年ほど踏ん張れば、明を越えられる。

 さて、その「明」が滅んだ後、登場した「清=満州民族」について考察したい。
 秦の始皇帝が建造した万里の長城を延長し、今日の高い城壁にしたのは「明」の時代。実質的な漢民族国家の国境と考えてよいと思う。
 「天高く馬肥ゆる秋」という諺がある。これは、秋になると馬に乗って北方より略奪に来る民族に対し、警戒することを言っており、それが建築物になったのが万里の長城であり、「元」を北方へ押し戻し、二度と南下させないようにした。

 明にとって当初、最大の脅威は北方のモンゴル(北元=元)であったが、北東に位置する、統一された満州(女真)民族から度重なる攻撃を受けるようになる。後に明は滅亡し、満州民族による「清」は、万里の長城を超え南下し、中国を支配し、モンゴルをも支配した。
 ちなみに満州は、外満州と内満州があり、現在、外満州がロシア領、内満州が中国領である。従来の中国の概念では、満州は、中華圏に含まれず、万里の長城で遮断された東夷,北狄といわれる場所であり、万里の長城の東端の関所より東にあることから「関東」とも呼ばれた。旧日本軍の「関東軍」は関東州からだが、その語源は、ここから由来する。

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【外満州と内満州を併せた範囲が、本来の満州になる。外満州がロシアに割譲されたまま今日に至る】

 現在の中国は、清朝時代の支配地域を自国領としているが、東夷,北狄とされる地域の満州族に中国が支配され、今度は、支配した側に立ち、中国ではなかった地域を中国としているわけだ。
 現在の中国は、同じ漢民族の「明」よりも、中華思想が北狄と呼ぶ「元」や「清」のような貪欲さを感じさせる。

 満州民族の「清」は1644年〜1911年の267年間(これも江戸時代くらい)にわたり、中国を支配した。しかし、17世紀に入り、ロシアが南下政策をとるようになり、満州がその舞台となる。
 「清」にとって満州は故郷であり、始まりは、瀋陽が首都だったが、その後、北京へ遷都した。
 漢民族の土地である中国を支配し、自らの拠点を中国へ移したが、半面、満州へ漢民族を入れなかった。しかし、その分、満州は手薄となった。
 ロシアの脅威から、満州を守るため、開拓を目的に漢民族を入れたが、時、既に遅く、ロシアに故郷が蹂躙される結果となる。

 1689年、清が強大だっただけに、欧州とは、対等な外交が出来た時代。対ロシアでいうなら、清は、ロシアを朝貢国とみなしていたほどだ。(過信ともいえるが)
 そんなロシアとの間で正式な国境線が引かれ、(ネルチンスク条約)外満州は清の領土として国際的にも認められていた。しかし、19世紀に入り、アヘン戦争、アロー戦争、太平天国で混乱する清は、ロシアとの間で不平等条約(アイグン条約・北京条約)を締結し、外満州を失った。
 極東に不凍港を求めるロシアにとって大きな収穫であるのと同時に、清は日本海への出口を失った。
 これは、現在も同じ図式で、中国は日本海へ出るために北朝鮮、羅津港を租借している。

 東南アジアが、列強の植民地とされる中、清は、東南アジア利権でフランスと戦い、フランスは辛勝した。そこで清は、東南アジア利権を諦め、朝鮮半島での影響力を失わないように朝鮮支配の強化を測り、ロシアの南下を警戒する日本と戦い、敗れる。
 その後、露・仏・独の三国干渉により、日本は、日清戦争で獲得した遼東半島を清に返還するが、ロシアは、その見返りに清から北満州の利権を獲得。
 列強により弱体化へ進む中国内では、満州族を追い払い、漢民族を興す太平天国の乱から反転し、清を助け西洋を追い払う排外運動になり義和団事変が起こる。
 義和団の乱は、中国分割の歯止めとなったが、半面、その代償が、満州全域をロシアが支配することを許す結果となった。ここに、満州族は、故郷の地を失い、中国の地が居場所となった。
 ロシアが朝鮮半島にまで迫った結果、日露戦争が勃発。日本が勝利し、ロシアの南満州租借権を日本が獲得、清との間で延長が交わされたが、1911年、辛亥革命により清は滅亡。
 これにより、満州民族は全ての土地を失った。元は、北走してモンゴルに帰ったが、清は、故郷が既になかった。また、清の滅亡により、日本は、満州租借の交渉相手が不明確になる。

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【満州国とその周辺。内満州が満州国となった。従来の概念なら、満州は、支那とは別になる】

 中華民国は、清朝領土の継承を宣言。そこには、満州も含まれるが、満州は、張作霖が実質、支配する。また、1929年、ロシア革命で誕生したソ連軍が、満州に侵攻し、北満州鉄道の権益を確保した。このとき、ソ連軍と中華民国軍が衝突している。
 1931年に起きた満州事変により、日本は、満州全域を支配下に置き、32年、日本の支援により「満州国」が建国される。元首は、清朝最後の皇帝・溥儀である。日清戦争での敵は、今度は盟友となった。
 満州国は、歴史的にみる「金・後金・清」といった、満州民族が興したものではないが、民族復権への期待もあった。また、この頃、満州は一気に近代化が進んだ。

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【満州にあった昭和製鉄所】

 しかし、第二次世界大戦で日本は敗戦、ソ連軍の侵攻により、満州国は幕を閉じる。
その後、中国では、共産党が国共内戦で勝利し、中華人民共和国が成立。満州は、中共の領土となった。ただし、外満州は、今日現在も、ロシア領である。
 日本が残した満州のインフラは、脆弱な経済基盤の中共にとって大きな力となったが、その漢民族による中国が、現在、東アジアの最大の脅威となった。
 今日も満州民族復権を夢見る人もいるが、歴史に興隆を誇った満州民族は、漢民族に同化され、先住民族となりつつある。

 もともと、中国(もしくは支那)という地域は、どこかの民族が支配者となり、アジアの覇権を行ってきたが、満州民族が、大清帝国を興し、興隆を極めた分、凋落の被害も大きくなった印象を受ける。
 清が自国、満州のみを治めることに専念し、中国支配をしていなかったとしたら、満州民族は、今、どのような生き方をしていたのだろうか。

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タグ:満州
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2011年01月15日

日露戦争に防衛の原点をみる

 日本にとっては、日露戦争以前に日清戦争があり、どちらも朝鮮半島を巡り、南下政策をとるロシアの脅威を防ぐことが最大の理由であることから、この二つの戦争は、不可分だ。

 清は、満州(女真)民族が、万里の長城を超え、中国本土を制圧、支配した国家で、中国の主流を成す漢民族国家ではない。その清朝が、凋落の様相をみせる後期、南下政策をとるロシアを食い止めることが出来ず、外満州(現、ロシア領)を失い、末期には満州全域の権益が、ロシアの支配下となった。満州族は清国を存続させながらも、故郷を失った。
 日本にとっても、対ロシア防衛は必然となり、自己管理が出来ず隙だらけの清およびその属国となっている朝鮮は、ロシアの南下を許す原因となる。
 そこで、日本は、清に朝鮮独立を認めさせようとし、斜陽の清は、朝鮮をより強固な管理下に置くことにした対立が日清戦争となった。

 一方、ロシアは、不凍港を求め南下政策をヨーロッパで進め、露土戦争で勝利し、権益を獲得したが、欧州各国の反発から、地中海を諦め、極東へ転換した。欧州各国にとっての厄介者を極東へ向けさせたということになる。
 奪おうとした相手が強ければ、もっと弱い相手を探し、奪おうとする。地中海での限界を感じたロシアが狙った、もっと弱い相手が、清国であったということだ。

 日清戦争により、冊封体制から解かれた朝鮮は、大韓帝国となったが、満州を支配するロシアと日本との間で、朝鮮半島を巡り、交渉は決裂し開戦となった。日本にとっては、脅威の対象である、真の敵との直接対決である。

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【乃木将軍とステッセル将軍(中央)】

 この戦争で直接交戦したのは、日本とロシアであるが、主戦場となった大韓帝国は、親日・親露と別れ、日本と同盟関係を持つ英国、露土戦争でロシアに敗れたトルコ(オスマン)、そして米国が日本を支持した。一方、ロシア側には、交戦は無かったが、モンテネグロが日本へ宣戦布告をしており、ロシアと同盟関係にあり投資をしているフランス、そしてドイツが支持した。露・独・仏は、日清戦争後の三国干渉を行った図式である。
 ちなみにドイツは、「黄禍論」を説いている。「アジアはアジアのもの」を標榜する日本の台頭は、アジアで植民地政策を行う欧米にとって不利益を与えるものとして、とくに日本と同盟関係にある英国へ、欧米のアジア利権の立場から警鐘を鳴らしている。

 英国は、露土戦争後、地中海でロシア南下が現実的になったところを外交で阻止している。それが元で、ロシアは南下政策の舞台を極東に変えたのだが、清に対しても権益を持つ英国と、満州での権益を狙う米国は、やはり、ロシアの南下を防ぎたい。勿論、ロシアは、地中海で阻まれた以上は、是が非でも極東で南下しようとする。
 構造的には、ロシア対英・米の要素を大きく孕み、列強各国の思惑が混在し、グローバルな利害を持っていたことから、日露戦争は「第0次世界大戦」ともいわれる。

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【陥落後の旅順港、wikipediaより】

 ロシアの南下を食い止めないと独立も脅かされかねない日本にとっては、生死をかけた戦いであったものの経済的には、英米に代わってロシアと戦ったことになる。
 分の悪い話だが、国の存亡がかかっているのだから、止むを得ない。このことは、伊藤博文は知っていたものの、「帝国か属国か」という時代だけに、民衆心理は、労力や犠牲に対する対価が少ないことに不満が出た。

 時代を経て、21世紀の現代。直接的には、他国を侵略して植民地化するということは、国際社会が許さない感覚はあるが、結果、力がものをいう構造は、基本的に変わってはいない。
 今一度、日露戦争を思い起こし、各国の思惑に利用されていがらも、国の存亡に関わるところに立たされたとき、何を最優先とするか、国防の原点をみることができる。
 日露戦争は、各国の世界観を変える精神的インパクトを与えたが、当の日本は、第二次大戦後、敗戦により、深い眠りに入ったかのごとく、非現実的な「専守防衛」を標榜。攻撃力を抑止し、反撃の意思を示さない姿勢をとってきた。
 だが、そうはいかない現実を、中国が示している。中国よ、目覚めさせてくれてありがとう。

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【平成22年10月2日名古屋尖閣デモ】

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2011年01月13日

歴史に「もし」を考えてみよう

 よく言われる「歴史に“もし”は、ない」。歴史に未練を残すことへの戒めであろう。たしかに「あの時、こうだったら」と仮説にすがってもどうしようもないことだが、歴史を教訓として考察するなら「もし」もまた、未来に向けて有意義なものではないかと思う。

 大東亜戦争において「もし」をいえば、例によって、すぐさま「歴史に“もし”はない」と聞こえてきそうだが、ひとつには、「負けたのだから言い訳は見苦しい」という理由がある。日本の美徳として、たしかにそうだと思うが、戦勝国にはそれが通じなかった。まして、戦争をしていない中華人民共和国は、今日、その美徳を逆手にとって外交カードにしている。
 もうひとつは、「戦争は悪」という単純な考えで、「日本は悪いことをした」という思考がはたらき、反射的に「歴史に“もし”はない」と、仮説を唱えると、あたかも反省が足りないように説教してくる人もいたものだ。
 殊更、大東亜戦争には、「歴史に“もし”はない」という思考が、はたらくような気がする。

 そこで、うがった見方をしてみた。
 日本人は、まんまと日本が侵略国家と洗脳されたが、連合国および敗戦利得者にとって「もし」を考えると、日本の正当性が見えてきて都合が悪くなるので、「歴史の“もし”はない」という概念を植えつけたのではないかと。


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【東京裁判で処刑された殉国七士の墓前で敬礼する元日本海軍台湾人軍人】
1970.6.14愛知県幡豆郡三ヶ根山殉国七士廟



■ 日本は、米国より「ハル・ノート」を突きつけられ、戦争に踏み切った。
 “もし”このハル・ノートを世界に公開していたら・・・。
 世界の見方が、日本が戦争に踏み切った理由をある程度は、理解が得られた。敗戦したとしても、一方的な悪者扱いにはならず、日本人自身が、これほどの自虐史観に苛まれることは、なかったのではなかろうか。
 ただ、ハル・ノートは、米国の指す「中国」という範囲に満州は含まれていなかったという説もある。しかし、今となっては、どうだったのか。

■ 1941年6月 ナチスドイツが、ソへ侵攻。
 “もし”これを理由に三国同盟を破棄していたら・・・。
 日本にとって、三国同盟は、対米外交圧力の要素があり、後には、ソ連を含めた「四国同盟」を画策していたともいわれる。日独共に対ソ連には、二国間の不可侵条約が存在し、ソ連侵攻は三国同盟の趣旨から逸脱するものであり、同盟解消の理由なりえた。
 このときに同盟を解消していたなら、英国が米国を欧州戦に引っ張り込むために、日本から引き金を引かせる手法は、意味をなさなくなったのでは。

さらに遡って
■ 1905年 日露戦争でのポーツマス講和会議
 “もし”南満州鉄道を米国と共同経営していたなら・・・。
 当時日本の払った犠牲において、南満州鉄道の日米共同経営を受け入れる土壌が無かったことになるが、共同経営を選択していたなら、20世紀は、全く違った様相だったのは間違いない。
 日本人が血を流し、米国のフロンティア・スピリッツを満たすことに、納得できるかどうかはあるが、当時のロシアを含む、東アジア情勢の安定性を考えれば、そのリスクを米国にも負担させるという考えがあっても良かったと思う。ロシア革命によるソ連の成立も違った勢力図となり、モンゴルへの影響、満州独立など、中華民国の地図も大きく変わり「明」の時代のようになっていたかもしれない。
 但し、1904年に米国は、ハワイに奇襲攻撃をして、独立国だったハワイを滅ぼし、自国領土とした。日本へのポーツマス講和会議直前である。 それ以前、ハワイ国王は、ハワイ安泰のため明治天皇の甥の縁談を申し込んだことがある。
 まさに帝国か属国の時代。ハワイも米国の脅威から、国を守るために日本に助けを求めていたのである。
 したがって、“もし”南満州鉄道を共同経営しても、太平洋を巡って、結局、日米は、衝突したかもしれない。

 日米対立がなければ、日英同盟の解消もなく、三国同盟もなかった。もっとも列強からアジアを開放する大東亜共栄圏構想に英米を入れることは、無理があったのもたしかである。英米と同調すれば、東南アジアの独立は遅れ、現在の東南アジア諸国の日本への見方は、良くなかったのではないかと思う。

 さて、「歴史」はその事実に真正直から向かい、さらに、角度を変えて向かい、客観的評価になれば、よいのだが、実際には「歴史」は、都合の良いように塗り替えられることが多い。
 「もし」は、当時の様相を多角的にみて知ることができる、有効な手法ではないだろうか。
 そこから真実が見えてきたら、違うことは違うと言うべきだろう。言える勇気をつけるために、黄昭堂台湾独立連盟主席の言葉を紹介したい。

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【黄昭堂台湾独立連盟主席】2010.10.12台北にて


 ――私は、日本人が使う「終戦」という言葉には違和感がある。戦争は、勝つか負けるかしかない。日本は「敗戦」したのだ。 「終戦」で濁すのではなく「敗戦」をしたことを理解しなければならない。「敗戦」を理解すれば、悔しさが出てきて、日本は、立ち直るだろう。――

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posted by 渡邊 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史を眺めて
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