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2016年02月09日

【知道中国 1347回】 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1347回】           一六・一・初五

――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田1)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)

 岡の香港滞在末期、従者を引き連れて香港に現れたK田清隆(天保11=1840年〜明治33=1900年)に就いては多くを記す必要はないだろう。暗殺された大久保利通の後を受け、明治政府部内で薩摩藩出身者の重鎮に。明治21(1888年)に内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法発布。翌年に辞任し元老となり枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任。伯爵で従一位大勲位。まさに位階勲等を上り詰めた元薩摩藩士。北海道開拓使官営事業廃止に伴う「開拓使官物払い下げ事件」がキッカケとなった「明治14年の政変」を遠因とし開拓長官から内閣顧問の閑職へ。香港登場は、その直後の事である。

 これから読み進もうとする「奥付」の見当たらない上下2冊本の『漫游見聞録』の「緒言」は、こう書き出されている。

 「今般游歷ノ地ハ香港ニ始マリ次ニ廣東澳門ヨリ南ハ西貢新嘉坡ニ及ヒ中間福州澎湖島台灣淡水鷄籠北ハ天津北京及ヒ張家口西ハ揚子江ヲ沂リ漢口を經テ宜昌ニ至リ往來里程凡一萬二千二百三十七英里日タル百八十五日其間見聞事状ヲ彙シテ此編ヲ輯ス行路匆々ノ採訪ニ係リ誤謬ナキヲ保セス觀者幸ニ是正ヲ賜ハヽ幸甚」

 内閣顧問の閑職とはいえ、旅行の数年後には内閣総理大臣に就き、それからまた数年を経て日清戦争勃発である。その黒田が、前後185日もの長期間、日本が仮想敵国として見定めるようになったであろう清国政治経済の心臓部を歩くだけでなく、西貢(サイゴン)、新嘉坡(シンガポール)とフランスに加えイギリスが東洋に築いたもう1つの植民地まで足を延ばそうとういうのだから、単なる鬱屈した精神を癒すための物見遊山であろうはずがない。やはり兵要地誌作りであり、清国の継戦能力調査であり、フランス、イギリスの極東政策探査と見た方が当を得ているのではないか。

 黒田は続けて、「游歷ノ地滯留ニ久暫アリ見ル所ニ踈密アリ聞ク所ニ詳略アリ故ニ記スル所前後繁簡齊シカラサルヲ免レスト雖モ強テ搆クヲ爲シ体裁ヲ一ニスルヲ求メス實ニ從フナリ
 見聞ノ事苟モ他日ノ參考ニ供スヘキ者ハ悉ク記載シテ其繁蕪ヲ厭ハスト雖モ既ニ世人ノ耳目ニ熟シタル事項ハ或ハ又省畧ニ從フ」と。

「緒言」の最後を「明治十八年十一月      黒田清隆記」と結び、一見すると私人としての黒田が見たまま、聞いたまま、感じたままを、ありのままに記した。後日の参考になると思えることは書き留めたが、一般常識となっているようなことは省略した、ということになっている。だが、「総叙」からはじまり「政体」「風俗」「度量衡及貨幣」「關税」「船舶」「貿易」「兵事」続き、さらに広東、福州、澎湖島、淡水、鷄籠、鎭海、上海、芝罘、天津、北京、張家口、漢口、鎭江、蕪湖、九江、宜昌、福州、淡水、廣東、香港、澳門、西貢、新嘉坡と続く目次を目にしただけでも、この旅の目的が黒田が岡の使いの者に語った「日來鬱病にして、旬月の暇を請い、域外の游を擧ぐ」といった類の暢気なものでないことくらいは判ろうというもの。

目次に見える上海の項を一例にすれば、「居留地裁判所及地方公會」「上海自來水局」「江南機器製造局」「上海機器製造局」「上海縣地方地税」「上海開市以來商業ノ沿革」「商戸ノ概況」「賣買取引」「商業ノ習慣」「商線幷輸出入物貨ノ景況」「上海港輸出入品價額總計表」「輸出品目」「輸入外國品目」「十萬兩以上輸出品目幷解説」「十萬兩以上輸入品目幷解説」「上海輸入日本物産表幷解説」「我邦物産ノ現況及将來ノ意見」と、客観的統計を示しながら経済の牽引車である上海の都市としての解剖を試みようとしているのである。やはり経済力の分析を通して清国の総合的国力を探ろうとしていると判断すべきだろう。《QED》

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2016年02月08日

【知道中国 1346回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡87)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1346回】         一六・一・初三

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡87)
岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 岡は、「香港は東西二洋航路を扼し、上海漢口は長江の咽喉を占める。(22カ所を数える中国の対外開放港の中で)貿易の盛んなること、この三港を推し、貨を『中土』に輸さん」(4月2日)とも記している。

 上海、漢口、それに香港は共に長江以南。だが、その後の日本の関心は主に満州を軸に中国北方に移ることとなる。南方か北方か。もちろん日清、日露の両戦争にかかわる日本を取り巻く国際情勢の変化などを慎重に考慮する必要があろうが、かりに日本が岡の説くよう南方に張り巡らされた東西交易ネットワークに関心を払っていたなら、その後の日本の大陸政策は違った進路を辿ったのではなかろうか。であればこそ、岡の語る南方重視の考えが現実政治の中で“それなりの居場所”を得られなかった原因は何なのか。日本の対中政策の歴史を振り返った時、やはり突き詰めて考えたい課題ではある。

 4月10日、「宏荘にして?麗。日中諸艦の比に非ざる」「英國郵船」に乗船し、いよいよ香港を離れる。12日は快晴で順風。船は快速で水面を滑る。船中の様子を綴って、

 ――西洋人の男女は椅子にもたれ読書し、12,3歳の子供は男も女も手を繋いで上品に振舞っていて、少しも慌てた様子ではない。それに引き換え「東洋の男女、下室(かそうせんしつ)に雜座(うずくま)り困頓苦悶し、顔は死者の如し」。まさに天地雲泥の差だ。

 今回の旅行で多くの「名人巨公(ちょめいじんやじつりょくしゃ)」と面談したが、懼れることなど全くなかった。ただ西洋人の男女が「怒濤狂浪の中を逍遥し、少しもその擧止を變ぜざるに不覺にも慙赧(はじいる)ばかり」。(4月12日)――

18日、駿河・伊豆の山々の間に「突出する富岳」や伊豆の諸岬を左手に望見しながら浦賀・横須賀・横浜を経て「?車に乘りて都に入」ることとなる。かくして岡は、「呉江を遡り、江浙諸勝を覧し、燕京より居庸關八達嶺を究め、香港より廣東に入る。日と爲すに三百五十日、經るところ殆ど八九千里」の大旅行を閉じるが、『観光紀游』の最後を「以て少しく蓬桑夙志(ながねんのひがん)に報いるに足らん。唯、嶺南に癘毒に觸れ一病奄奄として僅かに一死を免れん。豈に名山に靈有り。余が三寸の不律(ふで)を妄りに弄び、中土千年の靈秘を漏泄(もら)さんや」と結んだ。

 前後350日余に及ぶ大旅行によって、漢学に志して以来の宿願の一端は達成できたが、広東の悪い気候に体調を崩し黄泉の世界への道を彷徨いかけた。あるいは名山には霊魂が宿っているとでもいうのか。大病は、「中土千年の靈秘(しんぴ)」を筆の赴く儘に書き連ね暴き出したが故の報いだろう――「中土千年の靈秘」を明らかにしたからこそ、「名山」の「靈」に祟られた。してやったり。呵呵大笑する岡の顔が目の前に浮かぶようだ。

 岡が最後に記した「中土千年の靈秘」を中国を中国たらしめているカラクリ、あるいは仕掛けと見做すなら、『観光紀游』のそこここで指摘される「中土千年の靈秘」は、共産党政権が新中国の建国と自画自賛する1949年から66年余りが過ぎた現在でも十分に説得的である。敢えて誤解を恐れずに言うなら、現在の日本で見られる中国批判のほぼ大概は、『観光紀游』で岡が指摘した「中土千年の靈秘」を超えることはない。そこでハタと思い到るのがお馴染み林語堂の「たとえ共産主義政権が支配するような大激変が起ろうとも、社会的、没個性、厳格といった外観を持つ共産主義が古い伝統を粉砕し、その内実を骨抜きにし共産主義と見分けがつかぬほどまでに変質させてしまうことであろう。そうなることは間違いない」(『中国=文化と思想』講談社学術文庫 1999年)の“大予言”である。

 思えば岡の鋭い「三寸の不律」は、明治期の誰よりも的確に「中土」の虚実を書き留めた。だが、それが現実の対中政策に反映されたフシが見当らない・・・何故。《QED》
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2016年01月27日

【知道中国 1344回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡85)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1344回】       一六・一・初一

 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡85)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 ――「中土」では「士(やくにん)」を採用するに4つの方法がある。先ずは考試、つまり科挙。次は「蔭叙」で父祖の力によって官を授かる。「武功」は軍功によって選ばれることを指し、「捐納」はカネを寄付して官を授かることだ。この場合、官位の等級は寄付金の多寡によって定まる。太平天国が乱を起こした際、国庫が底を尽いていたことから、王朝政権が捐納という方法を考え出したのである。

 考試は4つの選抜方法の中で最も栄誉があるがものの、合格基準は専ら「貼括八股(ぶんしょうけいしき)」の優劣であり、学んだことを実行するわけではなく、実際の情況を学ぶわけでもない。実務に優秀な者は合格せず、合格する者は役に立たない。これこそ「中土百代之弊」というものだ。

 官吏には「實缺候補」があり、「實缺」は官職に就いても職務を行わない。「候補」は位階のみ与えられ職務に「補」せられる日を待つ。官吏の空席1つに数10人の「候補」が待機している。中には10年待っても官職に就けない場合もある。この他に「委員」というものもあって、「長官大僚」は「委員」を選任して職務を代行させるが、「候補」を選任する。「守牧(ちほうちょうかん)」は「幕友(なかま)」を採用し、上奏文・公式書類・訴訟・賦税・財政など、それぞれを任せる。極端な場合は、官位に就いていなくとも、陰で「知府知縣(ちほうちょうかん)」の権力を握っている者すらいるほど。

 「百度廢弛。綱紀紊乱(なにからなにまでデタラメ)」で、あらゆる「名器(しゃくい・いかい)」は名前だけ。物事は大小に拘わらず全てが賄賂で決まる。彼らが最も嫌うのは旧制を変更することだ。とはいうものの、1人や2人は率先奮発して仕事を進めようとする者がいないわけではないが、そんなことをしたら誰もが騒ぎ出し糾弾の声は四方から湧き上がり、とどのつまりは官を辞すか、罪に貶められるのが関の山。だから高位高官から下っ端役人まで、ひたすら追従に努め、禍が身に及ぶことを避け、平々凡々と日を送ることが多幸に繋がったわけだ。それは「我封建末(えどのすえ)」の世に実によく似ているのだ。噫。(3月29日)――

 かくして「中土百代之弊」の「弊」が浮かび上がってくる。やはり「百度廢弛。綱紀紊乱」は永遠に不滅ということだろう。

 中国では役人の世界を官場と呼ぶが、古来、官場には貪官汚吏と清官の2種類しかいなかった。もちろん圧倒的多数は貪官汚吏である。極く僅かな数の清官を探すのは、砂浜に落とした米粒を探しだすより難しい。1949年以来の中華人民共和国の歴史を振り返って見ても、やはり清官は見つかりそうにありませんね。毛沢東が58年に強引に推し進めた大躍進を批判して国防部長を解任された彭徳懷を現代の清官に擬す声があったが、それも文革によって消えてしまった。その彭徳懷も元を糺せば毛沢東の“番犬”であり、であればこそ清官であろうわけがないだろうに。

 どうやら人民共和国も含め、歴代中華帝国は貪官汚吏によって築きあげられた巨大官僚帝国ということになりそうだが、「百度廢弛。綱紀紊乱」という「中土百代之弊」を拡大再生産させながらも維持される中華帝国は、いったい、どのような仕組みになっているのか。改めて奇妙奇態で妙不思議と首を傾げるしかなさそうだ。

 そうそう、こんな記述も見られる。

――「中土大官」の多くは巨万の富を蓄えて。それを元手に「巨商」は「錢荘(きんゆうぎょう)」を開業する。かくて俗に大官を「商賈金庫」と呼ぶ。(4月4日)――

 さすが歴史と伝統の国。ならば共産党幹部も「商賈金庫」でしょう・・・ね。《QED》
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2016年01月16日

【知道中国 1342回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1342回】          一五・十二・念九
 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 病状好転の数日を過ごした後、19日には「夜來盗汗淋漓。大覺疲勞」と綴る。体調は再び悪化した。そんな中でも、日中関係への関心を綴る。

 ――新聞が伝えるところでは、李鴻章が清朝帝室を支える醇親王と日本事情に詳しい「巴亞克氏」を天津に招き、朝鮮問題解決に向け全権大使に対し両国は共に撤兵し、「韓土」が自ら憲兵を置いて外国人を守り、日本人殺害犯を罰するなどの数件を訓令したとのことだが、これらの措置は「中日情理」に適っているので、「兩國の和」を害することはないだろう。(3月19日)――

 ――ロシアとイギリスが朝鮮東南200里の貴弼島を奪い、ここを東洋艦隊の本拠地にすべく虎視眈々と狙っていると、新聞が報じている。「東洋諸國は氣候温和にして土性は肥沃。而るに武備を忽かにして卑陋(こころせまい)」。まったく虎の皮を纏った羊のようなもので空威張りの世間知らずだ。「中日の門戸」である安南と朝鮮が破られた以上、その累が「堂奥(にっちゅうりょうこく)」に及ばないわけがないだろう。噫。(3月20日)――

 朝鮮問題はなによりも「韓土」の王朝政権の優柔不断な振る舞いが原因であり、であればこそ問題解決の第一義的責任は「韓土」にある。日清両国が直接対決する愚は避け、それより「中日の門戸」である安南と朝鮮がフランス、ロシア、イギリスに破られていることに鋭意備えるべきだ。これが岡の考えだろう。だが、その後の日清戦争への道筋を振り返るに、岡の説く「中日情理」が一致することはなかった。

それにしても朝鮮半島を挟んだ日中双方の利害得失が一致することは岡の時代も、それ以後現在に至るまでも、いや恐らく今後もありえないはずだ。隣人であれ隣国であれ、厄介極まりない存在に如何に対応すべきか。頭を悩まし備えなければならないことは、古今東西・未来永劫に変わらないことだろう。「友好」の2文字は・・・有効ではアリマセン。

 21日は「連夜盗汗。氣力頓減」、22日は「心神不快。至夜盗汗」、23日は「全身疲勞。不欲飲食」と体調不良を訴える記述が続く。暗い顔をしながらイギリス人主治医は「このところの気候激変が病気を再発させた。病気というものは再発した場合、薬では治癒し難い」。「瞿然(おどろきおそれ)」る岡に向って下した診断は「日東風氣(にほんのきこう)は、人體に適す。宜しく稍や復するを待ち直航東歸(きこく)し湯藥(りょうよう)に從事すべし」。長旅を切り上げる時期か。かくて岡は帰国を家族や上海の友人に知らせる。

 22日、香港滞在中の黒田清隆が書記官2人を伴って広東に向った。するとさっそく中国人の友人がやって来て、「あれほどの政府高官が理由なく外遊をするわけはないだろう」と黒田来訪の目的を問い質す。そこで岡は率直に、

 ――黒田公は病気がちであり、「中土」に遊んで気分転換を図ろうというのだ。あなたは政府高官の外遊を疑われるが、欧米の高官や名士は続々と我が国を訪れている。イギリスやプロシャの王子も訪日をされているし、貴国の大臣もまた春秋の休暇を利用して日本に遊び、異国の風情を楽しんでいるではないか。(3月22日)――

 ここまでいうと友人は口を噤んでしまった。岡は友人の疑問を軽く躱したものの、「伊藤西郷兩大臣、使命を銜(ほう)じ北京に在り。而して(黒田)顧問二三の僚佐と此の游を擧ぐ。宜しく其れ中人の疑訝を速やかにする也」と記すことを忘れなかった。

やはり明治政府の柱ともいえる伊藤、西郷、黒田の3重臣が、しかも微妙な時期に同時に中国に滞在するのである。なにか魂胆がある。やはり岡の友人が「疑訝」を抱いたとしても不思議ではない。おそらく彼の疑問は、両国関係の推移に関心を持つ「中人」の多くが共通して抱いたに違いない。日清戦争の回帰不能点まで・・・残すところ僅か。《QED》

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2016年01月13日

【知道中国 1341回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡82)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1341回】        一五・十二・念六
      
「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡82)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 纏足の老婆を実際に目にしたのは、これまた香港時代。香港島の裏町だった。古本屋からの帰りだったように記憶しているが、前を上品な身なりの婆さんがよちよち歩いている。足元を見るとやけに小さい。こんなところで纏足そのものに出会えるとはと、胸の高鳴りを覚えたものだ。表現が大袈裟すぎるだろうが。婆さんの後ろを歩いて行くと、細い路地に折れ、その先の古びた店に入った。纏足専門の靴屋である。店内まで入る勇気は持ち合わせていなかったが、通りに面したガラス・ケースの中には紛れもなくシャレで小奇麗な刺繍が施された纏足用の小さな靴が陳列されていた。

 あれから大分月日が過ぎた。香港に行く際に暇を見つけては記憶を辿って香港島の裏町を歩くが、纏足用の靴屋などサッパリ見かけない。おそらく年齢からして、香港の纏足世代は既に鬼籍に入ったに違いない。ということは、この地上から纏足などと言う「おかしかりき」「頑迷な陋習」は消え去ったと思いきや、なんと中国国内には残っているらしい。それというのも5,6年前、確か雲南省の山村だったと記憶するが、その村の住人、といっても老婆たちだが、彼女らの纏足姿の写真集を手にしたことがあるからだ。

 老婆らの多くは年齢から判断して建国前後の生まれと見たが、かりにそうだとするなら、毛沢東の絶対権力の下で社会主義建設が進められていた(と大いに喧伝されていた)時代にあっても、「おかしかりき」「頑迷な陋習」は温存されていたことになる。イイカゲンと驚嘆すべきか。テキトウに過ぎると呆れ返るべきか。牢固として伝統を守ろうとする見上げた根性と困惑すべきか。いずれにせよ「莫明其妙(なにがなんだかサッパリわかりません)」。かくて中国という2文字を因数分解するなら莫明其妙となる、わけです!?

18日は「中俗無謂者甚多」で書き出されている。

  ――「中俗」には「無謂者(むいみなもの)」が甚だ多い。名前についていうなら、生まれた時に両親がつけるのが「幼名」。塾に入ると師長(せんせい)が名づけるのが「書名」。科挙試験の第一関門である郷試に受かって後は友人の間では「試名」を呼び合う。「庠舎(がっこう)」に遊学すれば同窓は「庠名」を名乗り、上級の科挙に受かれば「傍名」を名乗って朋友と交わる。最上級の科挙である朝試合格の場合は「甲名」で告知され、官職に就いたら「印名」を名乗る。

誰でも幼名や書名で呼んでいいが、成長した後に付けた名前は「君父師長」でなければ呼ぶことは出来ない。妻を娶り一家を構えたら、父や兄、それに伯父と叔父は字で呼ぶ。それも友人付合いや一族兄弟の間では口にできるが、名刺や書簡に署名する際には使えない。字に別字、号に別号があるが、他人は呼べるが自分で名乗ることも名刺に記すことも出来ない。全く混乱するばかり。友人同士では字ではなく名を呼び合う。だが名刺や書簡に署名する場合は、名ではなく字か号を使う。号なのか別号なのか、字なのか別字なのか。なにがなんだか定まった呼び名がみられない。

であればこそ、公文書・私文書に関わらず「一つの實名」を使う至便このうえない我が国に、中国が敵うわけがない。(3月18日)――

 以上を4文字で言い現せば繁文縟礼ということだろうが、岡の「中俗無謂者甚多」という主張は十二分に納得できる。一生のうちに、かくも多くの名前で呼び合うマトモな理由があろうとは、とても思えない。纏足にしてもそうだが、なぜ、かくも複雑怪奇な習俗が生まれ、受け継がれてきたのか。伝統だからというだけでは、神州高潔の民の末裔としては、どうにも理解に苦しむ。

 やはり中国=莫明其妙×繁文縟礼×虚礼粉飾×夜郎自大×猪突爆走・・・です。《QED》
posted by 渡邊 at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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