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2012年11月10日

塚本先生11月下旬世評――歴史と伝統に光る日本へ――

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歴史と伝統に光る日本へ 平成二十四年十一月下旬 塚本三郎

韓国人を自己批判した(朴元大統領)
 国内の政治家と国民たちは、自派と私的利益の追求にのみ汲々としたあげく、民族全体は常に放置されてきたのではないか。
 個人間の謀略、中傷が、私利私欲の追求から出ている。派閥争いと、私欲に血眼になって騒ぎながら、民族の共同利益に対しては、どうしてこんなに冷淡なのか、理解できない。
 生きている執権者の銅像は莫大な金額で建てられ、過去の志士や義士の墓前には、石碑一つ見るべきものがなかった。――このような歪んだ民族性、民族愛の枯渇から、どうして健全な良識を備えた民族性の成長が期待できようか。
 わが社会は、いずれが正当で、いずれが不当であるかの、「判ずべき一つの基準」がたっていないことは事実である。何が健全であるかの客観的尺度もない。尺度がないから、自然に自分と自分の利益に合致するものが正しく、合法的であり、自分と自派に不利であれば、それは誤っており、不法であると判断するのが実情である。

 今日、わが民族は余りにも自己利益のみに目がくらみ、あらゆる詐欺、欺瞞、不法、不正などの手段に魅惑されている。偽造商品、模造品などの生産や氾濫も、ひっきょう、「奉仕意識の欠如」からきているといわねばならない。

 価値判断の基準が自己の判断力とか、自民族の文化にあるのではなく「中国でどうしているか?」に照応してみて、受動的に決定してしまい、「事大依存的習性」をつくりあげたのである。――とくに、わが民族には、他人を見下げ、賤しめる傾向がある。
 いわば一種の差別意識、特殊意識がある。だがその反面韓国人はすべて悲しみ、哀傷、悲劇を好むという。それは「なるようになれ」「仕方がないじゃないか」といった「消極的な諦念」に堕している。
 それは「忍従」より劣る奴隷的「屈従」の固まりといおうか。したがって逞しく立ち向かっていこうとする、「西欧的悲劇意識」が韓国にはなく、軟弱な涙っぽい同情があるだけである。名誉をかけ、責任を完うするために死ぬのではない。

 嘘をいい、他人を偽り、人の金を搾取するのはすべて「名誉感の欠如」と関係が深い。
 わが民衆には名誉意識が薄弱であり、したがって法律上の「名誉毀損罪」には実感がない。ただ「家族意識、種族意識」があるだけだ。韓国史の主人公は眠っていた。
 国史は民族の鏡であり灯火である。過去のわれわれは「歴史を見る眼」をもてなかった。民族の進むべき道を展望することもできなかった。いまや、われわれは「韓国史観」を形成すべき時期がきたのである。韓国民族の主体性を把握し、韓国史も精神的支柱を回復して、外来文化輸入のための、「批判的受入れ態勢」を確立すべきである。
(WiLL十二月号より)要点を抜粋 
 朴正熙・韓国第五〜九代大統領(一九六三〜七九年)。一九六五年、日本と国交を回復(日韓基本条約)。日本との援助によって「漢江の奇跡」を実現した。

日本には神道と仏教文化が在る

 朝鮮半島の人達と比べ、わが日本民族は、誠実にして協調的であるだけでなく、思いやりと、名誉を重んじる伝統を保持している。朝鮮半島の人達と人種的には殆ど差異はないとみる。それなのにどうしてその差が顕著なのか。
 その根本には、日本では、万世一系の、誇るべき天皇陛下が存在されておられる。

 天皇は神仏を尊崇する祭主として、国民の中心に鎮座されていることだと信ずる。
 天皇陛下の地位は、政治権力ではなく、神と日本民族の権威としての地位を、自らその威厳を保持されている。政治権力によっては、犯すべからざる天意を保持されてあられる。
 日本は四囲を海によって隔てられて、明治開国まで、他民族との交流は在っても、文化的影響を受けても、武力的な脅威は少なかった。時たま受けた元寇の役などは、天皇家を中心にして防御出来た。――勿論その土台として、聖徳太子以来の、日本人の魂を築き、磨き上げてきた、「仏教文化」とも呼ぶべき基礎が在った。

 日本には在来の宗教として、神道が厳然として存在していた。
 神道の教義こそ、四季折々に受ける大自然の変化、それを天の恵と受け止める民族性そのものが、宗教として町々をささえ、それが神々を祀る神社として、各町民の心の拠り所として来た。――我々日本人の生活の根本は、大自然を相手とする農業が基本であった。
 そのことは、春夏秋冬の下で、耕作の実りを待つ「因縁果報」こそ神の恵みとして、各家庭から街々に、そして、国家の伝統として伝承されて来た。
 勿論、その天恵こそ、民の誠の働きによる結果として、因を蒔き縁を実りと信じて来た。

 そこへ、異端の宗教である仏教が伝来した。勿論、いっときは、奇異の眼で迎えられたとしても、その教義、経典は、日本の神道とは根本では合一している。
 神道が、大自然の恵みを、神のワザと受け止めての作法であるのに、その作法を、見究めた具体的論法をもって説得する「因果応報」の仏教経典の信仰こそ、神道と仏教が、双方相一致するものと、「生活体験」を通じて、日本社会に受け容れられた。

 世界の歴史は、闘争の歴史であり、その大半は「宗教観の対立」と紛争である。しかし日本のみが、神道と仏教が違和感なく、融合とは云わないまでも、両立し、並立して共存できているのは、その大自然観、即ち「天恵信仰の合一」に在るとみる。
 既に鎌倉時代は、仏教の各宗派が集団化し、日本社会を組織化し、今日で云う「政党的権威」と権力の土台を形成して、鎌倉幕府を支えて来たことを歴史が物語っている。
 而もその「宗派間の相違」は、異教ではなく、仏教経典に基づいた思想と、尊崇の単なる解釈の相違のみであったから、相対立するのではなく、「強調的競争」と云うべきか。

 時代の進化は、幕末に至って明治開国を余儀なくされた。その大変動の時代もまた、江戸時代の「町民文化」と民族性が、国際協調の新しき時代に対応し活用されて来た。
 古き階級的差別が、その部署を超越して、一致協調の実を挙げたのが明治維新である。
 維新の指導者は、国民統治の根本に「五箇条の御誓文」、そして「教育勅語」の制定を「政治と教育の指針」として建議して、国論を集体制化して今日に引き継がれた。
 人種として外見に差異のない朝鮮半島と日本が、全く異質の歴史を築いて来た根底には、日本の輝かしい「歴史と伝統の光」が大和民族の誇りとして今日を迎えている。
 だが、その伝統の光が、敗戦後、教育勅語の廃止と共に消されつつあることを憂うる。 
 特に近年、政界の乱れが、独善的風潮を招いている。長年日本を指導して来た自民党の指導力が劣化し、加えて、民主党政権に引き継がれて以来、特に、独りよがりな野田首相の政治姿勢が、皮肉にも、自身の政治運営を、ますます窮地に追い込んでいる。

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言うだけ番長の民主党

 一国の総理大臣には、申すまでもなく政治家を統率する能力と信用力が不可欠である。政治は独りでは何も出来ない。まして民主政治は多数決が基本である。
 野田佳彦総理の演説を聞いて、日本国家としての、直面する政治課題と、その要点は、失礼ながら、知り尽くしておられると、一応は耳を傾ける。
 官僚やマスコミが、具申し、要望していることを、承知しているからであろう。
 演説の焦点は外れていない。それなのに民主党内の各議員は、選挙を控えて逃げ腰である。月日と共に、それぞれの、維新と名の付く各政党に、ボロボロとクラガエしつつある。

 国家の為に進むべき理想と目標を定めてみても、野田首相では実行力が絶無と、身内の議員にすら、見捨てられつつある。
 内外の時代変化の波は恐ろしい。その寒々とした、与党民主党への寒波は、野田佳彦氏の姿勢が招いたと云うよりも、鳩山由紀夫、菅直人前首相二人の無定見が、その寒波を作り国民から見捨てられていたことが土台に在ると言うべきか。支持率一〇%台と。
 その上に建てられたボロ家だから、如何なる構築物、即ち政策を並べ、そして飾り付けても、国民は信用しない。加えて、無責任なマスコミのアゲアシトリに遭遇して、首相の演説と答弁は、日と共に崩れゆく夢物語としてより受け取られない。

 日本政治の弱体化を眼前にすれば、近隣の、ロシア、朝鮮半島、中国等の恐るべき野心が燃え盛ることもまた止むを得なかろう。
 善意に解釈して、私は「釈迦に提婆」と彼の国を呼び、日本再生への脅威とみる。悪役を近隣の三国が買っている。「日本よ目覚めよ」との激励と受け止めるべきだ。
 これ程に不評を重ねた民主党の野田政権は、いつまで、続けるつもりなのか。
 鳩山由紀夫初代政権の折、前原誠司氏が、思い付きに突然「ヤンバダムの中止」を発言し、やがて取り消しとなったことによって、「言うだけ番長」の流行語を創った。その後、幾度となく彼は、無責任にして、世人が耳を傾ける軽薄の発言を重ねている。
 民主政治は世論中心の政治であり、その世論を大きく支配するのは、読者への迎合中心のマスコミである。

 さすれば、可能か、不可能かを問う前に、無定見に、耳さわりの良い、マスコミ向けの諸政策を、党代表の首相さえも数々と打ち上げた。
 その悪習が、次々と受け継がれた民主党首脳の発言も、最近の野田首相の発言や答弁も、綺麗に官僚の作文を練り重ねた、「言うだけ番長」の典型と化している。
 一体、「政治主導」を掲げた民主党の公約はどうなったのか。
 そのことが今日では、日本の政治そのものを極端に劣化させ、政界自体を、不信のどん底へと突き落としつつある。野田首相の議会答弁も、記者会見も、彼の言語そのものが、余りにも軽薄化されている。それでも「言うだけ番長」の民主党政権を続ける気か。
 改めて論ずるまでもなく、選挙時に党が掲げる公約こそ、公党の政治生命である。

 耳当りの良い理念と政策を訴えて、幸いにも政権を手に収めた民主党が、全く「公約無視の政治」を行うこと既に三年。その結果、野党は勿論、すべてのマスコミも、政権担当の民主党に、「公約違反を重ねる党は、速やかに解散して信を問え」と叫び続けている。
 既に参議院では不信任の「問責決議」が為されている。それでも馬耳東風である。
 解散権は総理大臣の特権であると自負している。これ程に民意を無視して恥じない政権は、戦後珍しい。 恥を知らない人間に政治を委ねた、有権者の短慮と不運を嘆く。
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2012年10月30日

塚本先生11月上旬世評――日本国をどうする――

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日本国をどうする 平成二十四年十一月上旬 塚本三郎

 野田佳彦首相が断行した大幅な内閣改造は、「御祝儀相場」ですらなかった。
 今回の改造が代表戦の論功行賞と、党分裂回避という、内向きの論理で行われたからだ。
 衆議院解散先送りを求める声は、民主党内でますます強まる。
世論調査は、民主党が国民から見放されつつある実状を裏付けている。その様相を知ってか、――一連の人事で「解散先送り派」の影響力は増大している。
逆に、早期の衆院解散を迫る自民党に、「世論」の追い風が吹いている。
石破自民党幹事長は、「自民党に人気があると、民主党は解散したくなくなる。
かといって、人気を下げることは出来ない」
「解散をしなければ駄目だという世論になるよう。努力しなければいけない」
「めでたさも中ぐらいかな」自民党の閣僚経験者は、高い支持率をにらんだ、痛し、痒しの矛盾を、こうぼやいた。(産経新聞より)

何の為の居座りか

◎内閣総理大臣を中心とする日本国政府は、解散を避けて一体、どんな内政を、そして外交をせんとしているのか。
やることをやってから解散するとの言は、政権としては「当り前のセリフ」である。
ならば第一に、解散前に最重要課題である憲法を改正する「見通しと自信」があるのか。
◎防衛費予算を削っておきながら、外敵の侵攻に耐え得る能力と自信があるのか。
尖閣諸島の国有化を行っただけで、中国は駐在する日本人商社や商店に対して、狂気の暴動を仕掛けているのに、日本政府は口頭で抗議しただけである。
駐在日本国大使の掲げた車上の国旗を奪われ、その上数々の乱暴を重ねられれば、通常の国家ならば、「国交断絶」の事態ではないか。
野田首相はやることをやってからとは、これから何をやるつもりなのか。
◎やらねばならぬことを何もせずに、政治の道を塞いでいるのは、こと「防衛と外交」に対しては、結果として、敵に迎合していると判断されるのみである。
◎景気の低迷、不況脱出の対策は、極めて深刻な事態である。加えて円高が日本経済を身動きできないようにさせている。
◎今日の如き不況の時こそ、「公共事業」の大量発注によって、国民に仕事を創り、国土の健全化の為に働く道を創る。それはケインズ経済(自由経済)の鉄則ではないか。
◎円高こそ海外からの安い資源が手に入る、絶好の機会であるはずだ。
内閣はその展望を知らない筈はない。だが今日まで実行の意志は何等示されていない。
◎技術大国を自負する日本経済は、アセアン諸国と比較し、従業員の給与月額は約十倍であるから、日本企業の各社は、不況を回避する為、事業場を海外に移転しつつある。
日本国内の空洞化が進み、止まる気配がない。それを阻止する道は、日本国土の健全化、即ち内需拡大以外にはない。既に私は大胆な公共事業投資を提唱し続けて来た。

公共事業と国土の健全化

◎民主党政権は、公共事業が、自民党政権時代の悪習で、官僚主導の下に行われたことを、改革の目標に掲げ、「政治主導」を叫び続け、公共事業予算を削除し続け「コンクリートから人へ」の標語まで作った。
公共事業の発注には、今日まで多くの利権が伴っていたことは否定出来ない。
◎だが、その悪用即ち汚職と、本来の国土建設、強靭化、就職率の向上等とは、全く切り離して考え、対処すべきである。
◎政治主導と清潔を自負する民主党政権ならば、なおさら公共事業を増大させることによって、景気回復を、重大事項とし実施する責任を感じなければならない。
そんな立場に在る野田政権であるから、今回は世論に逆らい、敢えて行った三次改造内閣こそ、不況克服の為に、堂々と公共事業即景気回復に全力を尽くすべきだ。
せめて、自民党歴代政権への、批判と反省の上に立っての予算の削減であって、公共事業そのものの否定ではないことを、示す必要がある。
◎円高は目下、日本経済衰亡の元凶である。しかし、この円高こそ取り組み方によっては、そして政治権力者が、経済に対する見識があるならば、活用の絶好のチャンスとなる。
問題は、公共事業の実施方向と、そのための資金の捻出方法に在る。
今更、提言するまでもなく、「政府紙幣」の大胆な発行によって、この事業を賄うことを決断すべきである。つまり、「赤字国債を発行し、政府が抱えて市場へ売り出さない」。
◎資産と税の裏づけ無き「通貨の増発」は、インフレを招くことは承知している。
今日の日本経済こそ、インフレをある程度期待し、円安を切望しているのではないか。
今日の円高、一ドル七十八円を、百二十円に近づくまで、通貨を増発すれば、日本国内の不況は、一新されると思う。
その為には、概略の計算であるが「政府紙幣」を、約百兆円か、足りなければ百五十兆円を見込む。これだけの資金が増発されれば、思い切った、「国土開発と近代化」が進む。
その上、東日本大震災の完全なる復興と雇用の拡大と、中小企業の活性化によって、日本の各地域社会は、息を吹き返すことが見込まれる。不況克服、景気回復が進めば、
二十年前には、六十兆円の税収があった。その勢いを取り戻すことが出来よう。
今日では約四十兆円にも届かない、寂しい税収ではないか。
◎世界に誇る製造業大国の日本産業のみが、唯一国だけ円高によって苦しめられている、その苦境は正常な自由貿易ではない。
◎前原通産大臣は、「ドル買いによって円安を求めよ」と、日銀に迫っているが、それは正道ではない。財務省、経産省、厚労省を活用し、雇用の拡大、国土の健全化、近代化の為の「公共事業」投資に依る結果の円安(ドル高)ならば、世界中が、日本の経済拡大と通貨の正常化に賛意を示してくれるし、それこそ通貨の正常化でもある。

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教育改革の必要

 零細企業の経営者が言う。「働いてくれる人手が少ないから、親会社の仕事を断り、経営を縮小した」と。失業者が増大しつつある、わが名古屋でさえ、こんな事例が多い。
 機械と取り組む流れ仕事や、手に油が付く汚れ仕事は、嫌がって若者は働きに来てくれない。老人や、おばさん達でさえ。
 日本社会が失業者増大と叫ばれている。不況下で本来ならば、どんな仕事でも、働く場を求めるのが常識である。それなのに、未だ贅沢にも、職場の選択の権利は労働者に在る、と云わぬばかりの、風潮こそ日本社会の問題点である。

◎仕事の内容に比べて賃金が安いこと、それが、人手不足の主たる原因の一つであろう。それゆえ、中小、零細企業者までも、工賃の安い労働力を目標に、近くのアジア諸国へ向けて移転しつつあると解する。
豊かな経済大国日本、素晴らしい技術大国日本が、就業する種類に贅沢を言っているうちに、その結果は、仕事を海外に追い出しつつある日本と劣化して良いのか。
やがて、このままの怠惰な雇用状態を続ければ、仕事も技術も、そしてお得意様をも海外へ追い出してしまうのではないか。
定年退職した「年配者」は、その後の余暇を楽しみにしていたが、いざ退職して、勤務先を失ってみて、初めて働く仕事の無い寂しさを、味わっている筈である。
だが未だ、その年齢に達しない「壮年者」が逆に働くことの悦びを失っているのはどうしたことか。僅か一部の人のみと云い得るのか。
◎日本社会に生きる大衆が、勤労に対して「感謝と忍耐と努力」を軽視して、日本人としての、本来の魂を消失しつつある姿に気付かざるを得ない。こんな日本に誰がした。
今こそ、教育の再考即ち「教育勅語」の精神の復活を痛感する。
◎戦中、戦後を生き抜いた者と、戦後に育った若者との違いは、「教育勅語」によって魂を磨いた人と、否との違いであると思うが如何か。
戦後に育った若者が、発展しつつある日本の恵まれた労働環境の中で、好きな職業や、好きな環境で働き成長しつつあることは悦ばしい。だが、幸運は、人間の努力と苦労の積み重ねの中で招くものである。少子高齢化の波は、若年労働者が、大切に雇われることが、かえって、わがままに育ち、その結果、自分の身に振りかかってくることを憂うる。
自由世界は、日本だけが唯一にして独特の世界ではない。
一方では、定年を迎えた年配者が、長寿社会ゆえ、再就職を迎えても雇用の道がなく、一部の人達は韓国や中国をはじめ、アセアン諸国へ流れつつある。

 誠実にして、技術に優れた定年前後の就業者が、他国であっても、温かく迎えてくれるとすれば、祖国に背を向けても、致し方がない自然の流れである。
その結果、既に製造業大国日本の優れた技術と信用力が、韓国や台湾、そして中国の一部に、取って代わられつつある。「日本の商売敵」と代わりつつある。
 その重要な担い手が、日本からの高齢者の群であったと聞くとき、「奢る平家は久しからず」との古諺を思い出す。近隣諸国が優れて良くなることを妬むのではない。日本人が自らを卑しめていることを戒めるべきであり、自分達の商売敵を育てているのに気付く。
例えば、同じ黄色人種として、日本人も、韓国人も、中国人も、一見して外形も皮膚の色も、能力も大きな差はないと思う。

 それなのに、日本人と対比して、まるで人種の違いを露出して来た。それこそ、国民に対する「風俗、習慣と、教育方針」の差が、人間を異質に育てているのではないか。
今こそ、日本人をして、「本来の日本人」に生まれ変わらせることであると思う。
その根本は独立国らしい、防衛力の整備によって、若者を鍛え直すこと、出来れば「徴兵制」を考えることではないか。 
 そして小学生の時から、学校で「教育勅語」の精神を教育することが大切と信ずる。
識者は憂うる。「このまま十年を過ぎて、戦中に育った老人が居なくなったとき、日本国家は、日本でなくなるのではないか」と。それは単なる懐古ではあるまい。

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2012年10月20日

塚本先生10月下旬世評――日本を希望のある国にせよ――

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日本を希望のある国にせよ 平成二十四年十月下旬 塚本三郎

 野田総理が民主党内の選挙で圧勝し、再び代表の地位を占めて、引き続き総理大臣としてその任を続けることになり、その体制強化の為、直ちに第三次野田内閣を発足せしめた。
 自由民主党も、そのあとを追いかけるように総裁選を争い、安倍晋三氏が再び党総裁に選ばれた。
 「近いうち」の総選挙で勝利した党代表が次期総理大臣となる。
 世論調査による現況では、自民党有利の報である。だが「日本維新の会」も軽視できないとみる。何れになろうとも、次に掲げる国家的大事の実施に政治生命を懸けて欲しい。

第一は憲法を改正すること

◎日本国憲法が占領下に於いて、勝者中心に制定されたものであることは言を俟たない。
 特に、日米決戦で、米軍は予想を遥かに超える犠牲を強いられた。
日本軍の抵抗力を忘れない占領軍は、日本が再び強国とならないよう「永久弱体化」を狙った。その底意を持って、日本に押し付けたのが、日本国憲法である。
◎敗戦後の日本は、此の憲法を逆利用して「非武装、即非独立」「日本弱体化」の悪法と承知しつつも、日本国再建のため「平和憲法」と名付け、占領米軍をして、日本国家の傭兵とみなし、我々はひたすら経済再建に全力を傾けた。戦争によって、全土が焦土と化し、食糧にも窮する実状からして、日本国民の自負心さえ抑えざるを得なかった。
 戦後半世紀を経て、勤勉誠実な日本人は、勝ち誇る米国をも、大切なお得意様として商いに没頭して、着々と経済建設に成果を挙て今日に至った。
◎日本が自立、再建の余勢をかって、アジア各国へと、経済支援に乗り出して自国のみならず、アジア各国からも、期待と尊敬の念を勝ち得ている。
 日本国民の勤勉性、誠実さは、全世界に高く評価されつつある。
◎だが日本の発展がアジア、近隣諸国をも同様に、国力を強化しつつあり、日本のみが、独立自存であることを許さない。妬み、欲求は、隣国日本があまりにも魅力に満ちているにもかかわらず、国家としては、丸の裸そのままの姿ではないか。
 人間の近所付き合いは、兎角難しいものだ。同様に、国家間でも諍いが多い。最近に至って日本近隣、近海に莫大な資源の発見から、領土的野心が、年と共に危機を増大せしめている。その理由付けとして戦時中の、大東亜共栄圏構想を誤解と悪用する、中国と韓国の口実、即ち歴史認識は眼に余る。余りにも露骨、卑劣である。それでも対応を許さない。
◎この憲法の理不尽さを改めるべきだ、との声は、制定当時から叫ばれてはいた。
 だから、前述の如くで、今日の自民党が結成された時の第一の理念は憲法改正であった。
 それから既に約半世紀を経て、漸く、各政党が第一の政策目標に掲げざるを得なくなった。勿論、中国及び韓国の理不尽な、資源と領土的野心に対抗するには、この憲法が最大の障壁であるから。

第二は防衛力を強化すること

◎他国の侵略を防止することが最大の目的であることは言うまでもない。
 憲法前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と宣言した。日本国はその文言通りの体制を維持して今日に至った。
 だが近年に至って、その信念と決意は逆に、平和維持の危うさを招いて来たと反省せざるを得ない。ロシアとの北方領土、北朝鮮の拉致、韓国との竹島、中国との尖閣諸島等々。
◎数えてみれば、奪われた日本の固有の領土及び人権は、正常に戻すどころか、逆に、その理不尽な周辺国の行動が、時と共に危険の度を高めている。相手国が侵略の欲望と魔手を伸ばしている。それは、相手国を責めると共に、そのような卑劣な行為を、心ならずも、日本国自身が招いた一面が在ることに気付く。
◎何れの国も聖者の集団ではない。まして、権力の地位に就く各国の為政者は、心ならずも、衆愚の欲望と野心に応えざるを得ない半面を背負っている。
 とりわけ近年に至って、日本領土の近海の海底には、莫大な鉱物、エネルギー資源が埋蔵されていることが発見されるに及んで、近隣諸国が、種々の手段と口実を並べて、侵略の魔手を伸ばしつつある。相手国をして、悪意や欲望の虜とさせる不用心な、裸の姿の日本自身にも、無責任、即ち、防衛力否定の原因が在る。
◎日本及びその周辺に、魔手を伸ばせば、大怪我を受けると思わせる「強力な防衛力」さえ在れば、こんな危機を招くことは無かった。平和は守るのみではなく、戦いをあたりまえのことと、構える体制が不可欠と信じるべきで、その為には、先ず自衛隊を強力な軍団として、国家を守り、若者を鍛え、近隣諸国への威厳を示すことが第一である。

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第三は不況克服の為に内需を拡大することが急がれる

◎世界的大不況の波は暫く続くとみる。日本社会の少子高齢化は更に続く。民間産業が、日本国内のみならず、アジア諸国をもリードして来たが、その勢いは停滞しつつある。
 自由経済下では、民間企業を補い、日本経済を活性化させる為には、「公共事業」を思い切って大量に発注することを、国及び地方自治体が、大胆に発注実施すべきである。
◎東日本大震災の復興には、思い切った資金を、復興の具体化に注入する。政府は、例えば、この被災地方、各県に約十兆円宛て、約三十兆円の注入の計画をする。その予算で各県毎に、理想的復興計画と「実行可能な理想郷建設」の夢を与えることを提案する。
◎右の災害こそ天の警告として、日本国土全体の「防災施設の見直し」をする。国土全体の河川や橋梁の補強、見直し。日本海側の新幹線の施設。東京大阪間のリニアモーターの建設と早期実施。大都市及び観光地の共同溝による、上下水道と共に電線の埋蔵化。学校及び公共建築物の再検討。等々、挙げれば、内需拡大を求める公共事業は、数え切れない程に必要が迫られている。――問題は、その為の資金の捻出である。
◎一年間の税収約四十兆円に対して、既に政府及び地方自治体の借金は約一千兆円と云われ、更に借金は、際限無く拡大しつつある。それにどう対応するのか。
 この際、「政府紙幣」を発行して、その費用を捻出すべきである。既に各国は行っている。
◎国家には通貨発行の権利が在る。米国や、中国は、莫大な裏づけなき通貨を出している。例えば、日本政府は前述の公共事業に対処する為に、約百兆円の日本円を「政府紙幣」として、赤字国債の名で発行して、その借金を政府が抱えて、銀行や預金者には売りつけない。
 この方策は「丹羽春喜」氏が提唱し、徐々に理解が高まりつつある。
 百兆円で足りなければ、更に約五十兆円増しても良い。内需拡大、景気回復のため。
◎資産や税の裏付けなき通貨は、その価値が低下する、百兆の増発で円は一ドル百円に低下するだろう。百五十兆ならば、一ドルが百二十円近くになるか。円高対策の為ではない。しかし、結果として、円の正常化ともなり、輸出貿易の救世主として、内需拡大を推奨するゆえんである。しかし、一ドル百二十円に近づけば、インフレを警戒すべきである。
 世界一の巨大な借金を背負った日本政府に対して、そんな無理強いをすることは無謀だと日銀は云う。その通り、日本政府の歴代の政府が重ねた借金は減らすことが無理でも、せめて増やさない手立て、消費税増税等は現政界の当然の責任である。

第四は教育の基本を確立すること

◎最も平和で、誠実で、親切で思いやりの深い日本国民、その上、全体として公平な国家と自負する日本は、アジアのみならず、全世界から、最も尊敬されている民族であると自負して良い。――しかし、近年、日本国内では、凶悪な犯罪が続出しており、連日のニュースはこれ等の事件報道に、こと欠かない。
◎殺人、強盗、大切な親を殺し、また可愛いわが子を餓死させ、お金の為には愛人を殺して山林に捨てる。こんな凶悪な犯罪報道が、連日テレビ報道を占めている。
 勿論、僅かの件数であるが、今日迄の日本社会では、起きたことのない「事件の続出」である。関係者は一部の人たちと雖も、日本社会では在り得なかった事件である。
◎人間の形成は教育に拠る力が支配的である。日本人の道徳心は、明治二十三年に創設された「教育勅語」が学校教育の中心として、子供達の魂を、健全に育て上げて来た。
 何れの国と比較しても、抜群の秩序を保持しており、安心できる日本社会であったのも、
 敗戦後の日本が、復興出来たのも、「教育勅語」によって育てられた、日本人の、人間としての教育形成の土台が発揮されたことは疑いない。しかし日本の戦後教育の自由化が、その威力を消失しつつある。従って今一度、教育の基本を改め「教育勅語」の精神を取り入れるべきである。自由も、権利も、公平も軽視するものではないが、それ等の「人権には、責任と義務」が裏付けられていなければならない。
 
第五は、行政改革を断行すること

◎日本の高級官僚は最も優秀である。最高の学府を終えて、各省庁の特別の任に就き、その省庁一筋に、自らの能力を磨き上げて、位階の段を登り詰めた勝者そのものである。
 惜しむらくは、各々の「省庁在って国家無し」と評される如く。国家行政の縦の筋道そのものがすべてで、横の省、隣の省を眺める余裕がない。
 各省庁の行政が、時代の進歩と共に、行政の幅を広げざるを得なくなる。つまり、同じような仕事を、各省庁の役人が、別々に担当する。二重行政化が進んでいる。
 同様に地方の各府県の行政もまた、国と地方が、二重や三重に、同一の行政を行っていることが多い。それは、行政の無駄であるのみならず、指導を受ける国民にとっては極めて迷惑なことである。同じことを何度も指示される。官僚では、その点を是正できない。
 政治家は鳥の如く、高所に飛び立って、行政全体を俯瞰する責任が在る。
 政治家は行政を監督する任が在ると共に、人事権を行使することもできる。足りなければ、立法権を以って対応する、責任と権利をも与えられている。それが政治権力である。
 だが、その任を行使する為には、配下に在る官僚以上に、その能力、即ち指導力を保持していなければ実施することは無理である。政治家の資質が問題視されるゆえんである。
 民主政治の最大の難点は、愚民政治と評される「衆愚の代表化」を正すことである。
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2012年10月02日

塚本先生10月上旬世評――生かされたと悟るのが道徳、宗教――

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生かされたと悟るのが道徳、宗教  二十四年十月上旬 塚本三郎

不平等こそ発展のもと

 仏教を説いた釈迦は、自分の死後、二千年を経過した以後を「末法」と位置付けた。
 人間の持つ感情と欲望は、年と共に身体だけではなく智能の充実が加わる。その予測は、世界発展の歴史が証明している。
 そして「末法」到来から既に数百年を経過した。
 人智の発達は、単に、幸福追求のためだけではない。それを妨害する能力も同様に狡智として付随して発達する。
 既に、その姿を釈迦の説く仏教では「釈迦に提婆」の行動として、明示している。
 二十世紀は、地球上で各国が武器を執って敵対する戦争の世紀と位置付けられた。
 地上に生成した民族集団が、その住む領土を国家と名付け、平和と豊穣を築き上げて来た。その国家と呼ぶ大地には、人間の生きる為の、衣・食・住に適、不適がある。
のみならず、天上の気候と風土にも大きな差異が在って平等ではない。天上天下、不平等の限りが、この地上世界の現実の姿である。

 差異と不平等は、単に人間の立場で論じるだけではない。地上に生きるものは、人間と同様に生きる各種の動物もまた、弱肉強食の不平等を甘受しながら共存している。
 大自然は、人間の独善的思考で、生きて来て歴史を築いていると自負して来たが、実際には「活かされて来た」と省みるべきではないか。
 人間には、運、不運と呼ぶ、不測の事態に遭遇する場が多々在り、漸く自分の力以外に他の大きな、抗することのできない力の存在を認めざるを得なくなった。
人間の存在は努力がすべてであると、そう信じることこそ人間の自惚れである。すべてが生かされている、と謙虚に悟るべきではないか。
「末法」以前の先祖は、もっと謙虚であり、素直であったと思うが如何か。

 その抗することの出来ない力こそ、神と崇め、仏と信じて来たのが、先祖の賢い態度であったろう。例えば川の流れに抗して逆流に向かって渡るよりも、その流れに沿って舵を切ることが、自ら対岸に辿るのに便利な方途であることは、経験が教えて余りある。
 道徳、宗教が、その経験を土台として、人間特有の生きる道を生活の中に取り込んだ。
 人間社会では反対(敵)が在ってこそ、生き残る智慧と、体力を鍛える必要を悟る。
成長と発展の根源は、仲間同士は勿論、天上、天下、すべて平穏無事ではない。それは、成長発展を期待する大自然の試練、つまりは、警告から激励へ、そして達成への努力の積み重ねが、感激を目標とする、絶頂感を求める、生者の希望であることに気付く。

日本の政界は 

 自民党の一党支配が長く続いた。悪政と言わなくとも、賞味期限の切れた食物の如く、国民は新鮮な、まつりごとを期待して、民主党政権が、圧倒的支持率を得て誕生した。
民主党の鳩山、菅と二人の前首相は、選挙の際の公約実現(マニフェスト)の、第一歩さえも進めることなく無残に失脚した。
民主党の選挙公約は、国民に嘘を並べたのではない。
自民党の無責任と、国家の在るべき姿を、行動に移さない姿を見た腹立たしさから、野党時代に画いた理想を、大きく並べ立てて勢いに乗り、マニフェストとして並べた。
だが、政権を手にして、はじめて現実は、そんなに甘くはない。政権の重さを知り、野党暮らしの為の経験不足が露呈されたことを悟らさせられた。

地涌の菩薩出現か

 鳩山、菅の二人の失政を経て、新鮮なマニフェスト、そして責任感も失わないよと、野田首相は、硬軟取り混ぜて弁明しているのが、今日の政治姿勢である。
その結果は、民主党の選挙公約を忘れたかの如く、経験者である自民党の意を汲んで、先ず消費税増税一本に的を絞って実現させた。これに対して、民主党主役の言、即ち、
「民主党をして、自民党へ身売りした」との小沢一郎氏の評は的を射ている。だが自民党の主張こそ、国家財政にとって出来得る、限界近くであるのに、それを超えて理想として並べ、マニフェストを立てた小沢氏の、無理で、やり過ぎた当時を指摘したい。
野田政権は与党内から、ボロボロと脱党者がこぼれ落ち、崩れゆく姿は見るに堪えない。政治家は、政治権力の座に就けば、次々と自称賛同者が現われて、仲間が増えるのが通例であるのに。野田首相の場合は反対ではないか。それでも野田首相は幸運か。
民主党の抱えている内部崩壊の実情は、野党である自民党にも伝染しつつある。

 自民党こそ次の第一党代表は、即政権の首座を目指すことであるとみて、われもわれもと、民主党同様に、内部の協力一致ではなく。党内事情を軽視しての、内部分裂そのものを示して来た。――かくして、既成政党の融解現象がスタートしている。
その顕著な姿の一つが、橋下大阪市長の唱える「日本維新の会」となっている。
為政者が、時を経て、平穏無事、安穏をこととするときには、奮起発展の為に政権に対して、仇や敵が現われると前述した。その対立が、天意を得て、事なきを得るとは限らない。世は乱れ、争乱の機運が更に国内、国外に騒動、波風が立ちはだかる。
野に在る人士は、黙視できず、国家を支えるため、各地域で憂国、愛国の叫びが湧き上がる。仏教では、これを「地涌の菩薩」と呼ぶ。
大阪に産声を上げた「日本維新の会」も、「地涌の菩薩」の一つと称すべきか、この声はやがて東京、名古屋へと、三大都市から期せずして日本全国に拡大されつつある。
この声が、既存の民主党、自民党をして覚醒させるのか、或いは、更に大政党を崩壊させて、在野の新しい「維新の会」が取って代わるのか。注目に値する。
自信のない国会議員は、所属政党を離れて、維新を叫ぶ各党へ鞍替えすべく、浮足立っている。理念や政策よりも、議員としての地位が第一の目的とする、卑しい姿が目立つ。

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連立か、政界再編か

 冷静に、我が国の政界を達観すれば、日本国民はより良い選択と信じて民主党を圧勝させた。その選択の誤りに気付いたのは、政界ばかりでなく。国家、国民各階層の指導者が、民主政治の真に在るべき姿を求めての結果であった。そして怠惰な選択は、その結果が、我が身に降りかかってくることを、現実の姿として、学ばさせられた。
 民主主義が、愚民政治、堕落政治、数による暴力政治、の三悪政治であると喝破したのは、約二千年前ギリシャの哲人、アリストテレスの名言であった。
 それでも、独裁政治よりも、ベターな政治として民主制が今日に活用されている。
多数党である民主党の野田首相は、国会が死につつあるのに、迷走を重ねている。
それを阻止すべき野党の自民党が、国会解散を目的として、民主党に致命傷を与えた。参議院での(問責決議案に同調)したことである。  
それゆえ、国会は死んでしまい、国費だけは大量に浪費し尽くしている。

 それでも野田首相は、国政の再出発、即ち国会解散を避け続けている。国会の機能が死滅し、政治機能がマヒしていても、解散を断行すれば、民主党の崩壊と直結するから。
日本国家に対して官僚だけは幸いにして、足蹴にされながらも必死に行政を続けて、どうにか国政は生き続けている。
自分自身が大切、そして所属する民主党在っての首相だと「国家は眼中に無い」かの如く、
民主党が生き延びる為には、政権を欲しがっている自民党の野心に応えれば良い。
ならば民、自、公の三党が、政治生命を懸けて頑張って、消費税と社会保障の一体改革を成立させた、二ヶ月前を思い起こせば、あのこと自体、三党連立政権そのものであった。 
与党民主党も、野党自民党も、各議員は、一日でも長くその任に在りたい。そんな空気を見てとった、一部政界や言論界の長老の言は、国会の内外に広がって来つつある。
それを国会全般に広げ、現実の政局に持ち込む「三党連立政権」を求めるのが良い便法だ。それを期待する多くの長老もいる。

 だが「連立政権」は野合である。国民の前に理念を掲げて、長年国政の基本を示し支持し、維持されて来た、各自政党の理念や、基本政策の違いを、どう乗り越えるのか。
国家的重大政策に直面すれば、直ちにその内閣は分裂することが眼に見えている。
それこそ、全くの野合である。万一、それが最善の策だとしても、三年前に掲げた公約破綻を、ひとまず清算することこそ民主政治の常道である。

 かつての三党一致は、消費税増税と云う、ひとつの政策では、民主が自民に歩み寄った、憲政の常道に従った唯一の例外的な一致で、それを政局全般に応用するのは、各政党の自殺行為ではないか。
一方、総選挙を改めて断行すれば、各政党はどうなるのであろうか。
既存の大政党とて前述の如く、過半数を得ることは、不可能とみる。それで良い。
その時こそ日本政治再生のスタートとなる。その時こそ、国政の理念を大々的に掲げて、お互いに、基本政策を中心にして、政界再編成が期せずして歩み始める。それが一挙に出来るか、繰り返しの離合集散となるのか予測出来ないが。

 「近いうち」に実施される衆議院総選挙の結果による。恐らく何れの党も、一党で過半数を制することは、無理とみる。ならば、理念と政策の合一した政党同士が、各主張を掲げて、「この指とまれ」で、相集まって新党、即ち「政界の再編成」を行うこととなろう。その時、日本国家の直面する、必要不可欠の基本条件を、期待をこめて述べてみる。
第一に憲法の異常性を改正し、独立国家として当然の姿に改める。第二に他国からの侵攻に対処し防衛力を強化。第三に不況克服の為の内需拡大、即、公共事業の拡大と円高の是正。第四に教育の重視、「教育勅語」の精神の復活。第五に官僚行政の改革、即、緊縮行政の断行。第六に地方行政の重視、等々。
今日ほど政治が全責任を持って、「国政の在るべき正道」に立ち戻る必要を痛感する時代はない。まさに「平成維新断行」の期待と云うべきである。
折しも、自民党大会で安倍晋三氏が新総裁に選ばれた。(九月二十六日)
彼が掲げた主張は、右に述べた六項目と、ほぼ同じ政見を発表している。
「近いうち」に行われる衆議院選挙で、自民党が躍進し、安倍新総裁が政権の中心に就けば、寂しい日本政局に、新しく、希望に満ちた前途が拓かれると、大いに期待する。
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2012年09月12日

塚本先生9月下旬世評――遠水は近火を救わず――

元民社党委員長塚本三郎先生9月下旬世評です。

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遠水は近火を救わず(韓非子) 平成二十四年九月下旬   塚本三郎

 戦時中に育った少年時代の私からみて、在日朝鮮人は、私達と同じような貧しい生活をして、狭い長屋に、集まって暮らして居た。名古屋市中川区(昭和初期のこと)
 彼らは朝鮮名を名乗っていたが、日本の姓を名乗る者も居た。(本人の自由選択)
 小学校では、クラスの中で数名居たが、日本と朝鮮の両方の姓であった。しかし、その人達が、彼等特有の服装と態度であったから、在日朝鮮人と判別出来た。
 生活態度や、食糧は、日本人と異なって、臭気の強い物を食べていると思われ、近づくと異なった体臭を嗅ぎ取れたからであった。
 彼等には日本人であるという自覚はないが、我々と対立する態度は示さなかった。勿論、仲間のうちでは 自国語を使っていた。だが、小学校では日本語を充分に活用していた。
 クラスの中で、子供達の成績は特別に良い子も居るし悪い子も居て、その差は無かった。

日本の同和政策

 明治四十三年、日朝併合以来、日本政府は、朝鮮半島に対して同化政策に力点を置き、あらゆる場所で、決して差別しなかったばかりか、日本政府の国家予算の二〇%を朝鮮半島の「公共事業」に注入した。それゆえ鉄道、学校、道路、港湾等は急速に発展させた。
 特に顕著な点は、朝鮮併合当時、六〇校よりなかった小学校が、敗戦時、三千校へと僅か四十年弱の間に増設された。
 名古屋帝国大学より先に、京城帝大が設置された。宗主国が植民地国へ、教育施策を強化した例は絶無であった。従って、韓国人が云う、植民地政策の如き扱いはなかった。

 勿論、被保護国が、自ら卑下した精神状態に置かれたことは止むを得ない。今日の日米間にさえ、日本人の一部に、米国へのコンプレックスの心理が、否定出来ないように。
 日米間に於いても、対米国に対して被保護国国民らしさを大げさに取り上げ、反米、即、卑下の心境を露骨に示すことによって、愛国者振りの発言をする左翼偏向の人士も居る。
 それと同様に在日韓国人、及び朝鮮半島の人々が、被害者ぶった発言は、事実とは逆であっても、止むを得ない心境と認めよう。
 問題は、先進国に有り勝ちな、韓国のマスコミのおおげさな態度、偏向ぶりである。
 その一部の声を、あたかも大勢であるかの如く、愛国者ぶって、「反日の声」を大きく宣伝し、果ては、その国の思想を大きく歪めることも少なくない。
 「若し日本が、我々の韓国を、日本に併合してくれなかったならば、今頃の韓国は、ソ連の奴隷にされていたことであろう。
 日本が併合し、本国と同様の手厚い施策をしてくれたお陰で、アジアでは、日本に次ぐ第二の発展した国家となっている。」と、韓国の首脳が挙って我々に敬意を表してくれた。
 日韓議員連盟、会長 竹下登、副会長 塚本三郎、幹事長 加藤六月の体制で毎年、東京とソウルで、交代で双方の国家代表を招いて、懇談を重ねた、昭和六十年代のことだった。韓国は金泳三大統領。金支漢ソウル市長等々。

 勿論、当時と雖も、日本は韓国に対して大量の経済支援を重ねていた時代でもあった。
 韓国の指導者の大半は、当時、日本に併合されたことを、心底では良かったと理解している筈である。彼 等の心底には、対日本人への、あこがれの気風さえあった。
 その韓国が年々、日本、米国、中国等を相手として経済成長を達成して、大国となった。
 それゆえ一面では、むしろ、かつての被害者顔を示して、対日の非難へと、発言が転化し、僅か三十年の間に、かくも対日関係が悪化したことを、彼等の為に悲しく思いやる。

 韓国の為政者よ、冷静に周囲を見てみなさい、この二千年間、中国に対して頭が上がらずにきたのは歴史的事実である。中国が韓国を助けることは今後とも絶対にないと思う。

 助けるときは、属国にするときのみ。また、ロシアはまったく信頼できない。
 友好国となってくれるのは、唯一日本だけではないか、と心ある日本の指導者は云う。
 或る中国の忠臣が諫言した。もし失火したとき、その火を消そうとして、遠い海から水を運ぼうとすれば、海の水量は多くても間に合わない、近くの川の水こそ大切である。
 「遠水は近火を救わず」「韓非子」。――遠い親戚より近くのとなり 「日本の諺」

誤認の原因は日本にも

 米国の超党派の知日派がまとめ、八月十五日に発表された、「アーミテージ報告」は、
「日米両国が経済的にも、軍事的にも、強国であり続けねば、自由、民主、法の支配、人権といった価値観に基づく、国際秩序は確保できない」と主張する。
 「慰安婦問題などで日韓が揉めていれば、敵を利するだけだ」との認識を論じている。だが「慰安婦の碑を建てないよう、米国の地方自治体に働き掛ける日本政府の行為」などを批判している。

 問題は、このアーミテージ氏は、朝鮮人女性を、強制的に姓奴隷にしたという、「慰安婦の碑」に見られる認識を、大筋で受け入れている。これは彼の全くの誤認である。
 ただ、こうした誤認の蔓延に当たっては、日本政府の責任は大きい。
 日本政府は国際的な場で、繰り返し「謝罪と反省」の意を表している、という「逃げの弁明」に終始してきたことが、韓国側の、日本への「タカリの口実」に利用されている。
 事実は一つ。日本将兵による慰安婦の強制連行などなかった。この点を強調すべきだ。
 日本のみならず、韓国の男たちも、娘や妹の拉致を、指をくわえて見ていた腰抜けなどは居なかった。日本のみならず、韓国の父祖の名誉も守るという立場を強調すべきだ。

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 日本政府は「先制降服」と云う卑怯から脱した「広報活動」を行うべきだ。
 河野談話の誤りを堂々と正すべきだ。
 李明博大統領が竹島に不法に上陸した。自信がないから、わざわざ小さな島でも行く。
 更に天皇陛下まで引き合いに出して「天皇がひざまずいて謝らなければならない」と発言した、これは絶対に許せない。過去の話は、日韓基本条約で、すべての問題は済んだことだ。韓国がそれを蒸し返すのは条約違反である。

 他国に、韓国がこれ程の非礼を働く「未熟国家」であることを天下に知らしめた。
 天皇に対して非礼の言動を述べることは、日本人にとっては最大の罪業である。
 日本の真実を知らない他国の責任者ならばいざ知らず。数十年間、同一国民として暮らした韓国人ならば、天皇陛下の尊厳とX存在の重さを知らない筈はない。

 李大統領は、そのことを承知の上での非礼の発言である。而も事実にあらざる事を勝手に引用しての暴言は、大統領が、自らを辱める言動であったと受け止めるべきである。
 如何に反日の気運が高まる韓国人向けとはいえ、余りにも卑しい。
 自国民の自尊心をくすぐる狙いとしても、礼儀のカケラもない発言は常軌を逸している。日韓関係に容易には治癒しない傷を、負わせてまで、政府の人気を回復させたいのか、憤りを通り越して哀れである。韓国の政界にも常識の通じる人は居るであろうに。
 どうか「ノーズロ」の李明博大統領に、パンツをはかせてやってください。

 一方、菅、野田と二代続けて総理が、在日朝鮮人からの献金を受け取っていた。
 国家のトップが、外国人から献金を受け取っておいて、「バレても返せばお咎めなし」の国が他にあるのか。外国人であると知らなかった、との弁明であっても。

 野田総理は、今年八月十五日の戦没者慰霊式典で、「アジアに多大の損害と苦痛を与えた」と発言した。――英霊の慰霊の場で、「お前達はアジアで人殺しをした」といっていることと同じことではないか。
 戦死者の霊に向かって、どうしてこんな無礼なことを言わなければならないのか。

最も遠い国と近い国

 日本と米国との関係は、最も距離に在りながら、最も近いお付き合いの宿命を持つ。
 さきのアーミテージ氏の報告の如く、日本の果すべきアジアでの平和は、米国の後ろ楯無しでは成り立たない。全世界に於ける平和の守護神を自負する米国側からみれば、アジアにおいては、その最大の楯が日本国そのものであると、自認する。

 更に、経済的にも、日本と米国との協力は不可欠である。軍需産業は勿論のこと、巨大な航空、宇宙産業と雖も、日本の技術と部品の製造能力は米国経済と一体を為している。
 日米関係がより大切であるがゆえに、慰安婦の認識の誤りは声を大にして正すべきだ。
 日本と韓国とは、一番近くに位置して、避けることの出来ない、地理的存在である。

 日本の平和を侵す原因の大半は、残念なことに、朝鮮半島を通じての契機であったことは歴史が認めている。――ことの良し悪しを論ずるつもりはないが、遠くは蒙古来襲の元寇の役以来、戦国時代、そして日清、日露戦争等、すべてが、朝鮮半島が、日本への侵入の足場としてロシア、支那に利用された。その反省から、日朝の併合となった。

 皮肉にも日朝併合時代が、双方にとって、もっとも平安な時代ではなかったか。
 一番親しくせねばならぬ関係の朝鮮半島が、日本列島のノドモトに突き付けられた刃の如き姿であった。 日本にとっては、隣の国が、強大国として脅威を与えることは困る。
 だが弱小国として、ロシア、中国の手先とされて迫られるのは、もっと困る。
 今日の韓国は、漸く大人としての成長期である。それは日本にとって大きな希望であり、アジア安定の基礎でもある。日本は兄貴分として、面倒を見てあげたとの自負がある。
 その事実を承知しているがゆえにこそ、韓国は逆に反日の対抗心を見せる。

 日本国内で、経済界は勿論のこと、スポーツ、芸能界で活躍する人士の中で、朝鮮半島出身の有名人で日本に貢献している人は少なくない。有能な力量を大きく発揮している。
 昭和初期に育った我々にとっては、在日の韓国や北朝鮮の人達と差別する気分は全くない。恐らく、それ等の在日の人達も、祖国の政治家が、反日の声を高める度に、内心悲しく思っていることであろう。
 日本国としては、良かれ悪しかれ、韓国と日本が、独立独歩、その上で一番親しい兄弟として、共存の道を定め、政治家が是は是、非は非として、大人の大道を定着すべきだ。

 日本は遠い国の米国とは、うまく付き合いながら、近い隣国の韓国とは、摩擦が多すぎる。庶民の近所付き合いも兎角こうした因襲が似ている。それを正すのが大人の政治だ。
 その政治権力者が、自分の権力維持の為に悪用することは最も卑しい所業である。
勿論、日本自身が、自信と威厳をもって、対処することが絶対条件である。

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