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2015年10月29日

【知道中国 1314回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡55)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1314回】           一五・十・念八

  ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡55)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 上海滞在も残り少なくなったが、岡は以前に変わらずに友人との往来を重ねる。とはいえ、すべてが順調というわけではない。12月22日のことだが、ある友人を三度訪ねたが不在だった。首を傾げつつ別の友人宅に立ち寄ると、「彼は役人だから、あなたとの面談の約束をすべきではなかったと思っているのではないか」と。あるいは新聞に掲載された岡の主張が、面談を約束した人物の役所での立場を悪くするとでも慮ったのだろう。そこで岡は「怫然」として綴った。

――彼は名家の出身であり、約言の何たるかを弁えていようもの。「中人の輕浮なること、其の言、恃むに足らざること往々にして斯くの如し」。(12月22日)――

「中人の輕浮なること、其の言、恃むに足らざること往々にして斯くの如し」とは、余ほど腹に据えかねたに違いない。

 翌(23)日、欧州より戻った友人の歓迎会に赴く。料亭に繰り込んだところ、客は寝そべって洋烟(アヘン)の煙を燻らしている。そこで、さすがの欧州帰りである。「なぜ止められないのか」と。この欧州帰りは、どうやら日本人のようだ。すると中国の友人が「中国人が止めるのは簡単だが」といいつつ笑いながら「アヘンにどのような害があるというのだ。『酒色』に溺れて死ぬ者もいるが、それは『酒食』が『生』とは較べものにならないほどに『樂』しいからだ。『其れ煙毒に死すに、何ぞ酒色に死すに異ならんや』」と反問する。そう綴った後、岡は「此の言、戯れと雖も一理有り」とした。岡の綴るように友人の屁理屈に「一理」あるかどうかは知らないが、やはり煙毒は21世紀の現在にいたってもなお根治できないばかりか蔓延る一方であるだけに、永遠の宿痾ということだろう。

 24日の記述には、日本からの電報で、井上参議が外務卿に任じられ高島・樺島の両少将を従え「韓地」に派遣されたことを知る。

 前日にアヘン吸引を糾弾した欧州帰りの友人が、「我が朝廷の主旨は平和に在り。だから外務卿に命じたのだ。外務卿の職責は善隣友好の保持にあるのだ」と。そこで岡は、

――我が国は兵を駐屯させているのは「在韓邦人」を守ることにある。李王が突然の国を閉じたとしても、その行為は認められるべきだ。井上公使は李王の命を重んじ、日本兵を動かし李王を守った。これまた意気を感じる。義に赴いた日本側は「二百精兵」で周囲から攻勢を仕掛ける「千百」の清国兵を敵にし、死んでも退かない。その姿は、日本兵の武勇を内外に高からしめた。敗れたとはいえ、あっぱれな栄誉だ。

 清国兵はゾロゾロと規律なく進軍し、浮足立った李王の兵に驚き散を乱して「狼狽遁去」する始末。内外の笑いとなっている。清国公使を辱めるものだ。(12月24日)――
我が「二百精兵」に対するにブザマな清国兵。日本人は、朝鮮における戦いで初めて中国人を知ったはずだ。彼らは、日本人が中国渡来の書物で学び盲信(誤解?)しきってきた“孔孟の徒”ではなかったのである。日本人は中国人を買いかぶっていたのだ。「好鉄不当釘、好鉄不当兵」を実感したであろう日本人にとって、中国人は尊敬から嘲笑の対象へと変化していったということだろう。

 25日は「耶蘇誕辰」、つまりクリスマスである。港に停泊中の大小の洋艦は紅白に飾られ、上海の街からは爆竹の音が聞こえてくる。

 この日、友人から科挙試験に赴くとの知らせを受け、北京滞在中に知った科挙試験の実態を詳細に綴った後、改めて科挙こそが天下を誤ったと断じた。

――古典にみえる数万文字を前後を違えずに遺すところなく暗記しなければならない科挙は、天下国家のために身命を賭すことを妨げるばかりだ。(12月25日)―― 《QED》

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2015年10月03日

【知道中国 1301回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡42)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1301回】         一五・十・初一
 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡42)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 いわば異民族に征服されているという事実すら忘れ去ってしまったような頓珍漢は、岡の苛立ちを気づかぬ風だ。さらに「若い頃は心弾ませて学問の道に進みました。後に古代の文字学を知り、一心不乱に学んだものです」と自慢げ。そこで岡は切り返す。

――清朝では確かに古代の文字学は格段の進歩を遂げたとは言うが、それによって何か得られましたか。大学者が著した著作の「一半は無用」なのです。況や「餘唾を舐める者」をや。やはりヨーロッパの現状を考えれば、「學弊」は明らかでしょう――

 ここまで聞いて少し悟ったような相手は、「やはり壮年は一生懸命に学ばなければなりませんな」と。ここまではよかったが、「ところで、『東人(にほんじん)』は『洋烟(アヘン)』を吸いますかな」と。そこで岡は「洋烟は國禁なり。國人、洋烟の何物為るかを知らず」と。すると相手は怪訝な顔。かくして岡は、「中土の儒流、事を解せざること往往にして斯くの如し」と呆れ果てた。

 翌日(11月17日)も、自家撞着・夜郎自大・尊大自居ぶりを存分に発揮する「中土の儒流」と相対することになる。友人の次男を含む少壮の10数人が訪ねて来て教えを願い出た。そこで「僕、妄りに狂言を發し左右に敬を失す可からず。諸君は年少たり。僕に一事有り。切に諸君に問わんと欲す。諸君、能く教える所有らんか」と。すると「皆、誨(おしえ)を請う」。そこで切り出す。

――凡そ「士人」が学問読書するのは、まさに「當世(いまげんざい)」に役立てようとするからである。今や「法虜(ふらんすやろう)は猖獗を極め、福州は破れ、台湾は僅かに保ってはいるものの、「中土」は存亡の危機にある。「諸君、何の策ありて目下の急を濟(すく)わんか」――

 すると1人が「『法虜』には我慢なりません。『中土』は大挙して征伐の軍を起こし、一撃の下に撃破し、兵も軍艦も西方に逃げ帰れないようにしますから、『先生の憂悶』には及びません」と。そこで、

――それでは台湾を守っていた張佩編と同じだ。彼は滔々と万言を費やしていたが、フランス軍艦の放った一発の砲声を聞くや腰を抜かし、部下の兵を残して遁走したのだ。「兵(いくさ)は口舌筆冊(くちさき・ふでさきのこと)」ではない。私が伺いたいのは、そんなことではない――

 すると、その若者は席を立って去っていった。残った者は「黙然」し、暫くすると「敢えて大教を請う」。そこで岡は切々と語る。

――諸君は科挙を目的に学問に励み、万巻の書は頭の中に納まり、一たび筆を動かせばたちどころに千言をものする。「堂堂たる天下の士」だ。だが今や「國家大變に際し」、天下の急を救う有効策も奇策も打ち出せない。何のための学問だったのか。いまや「宇内大勢(こくさいじょうせい)」は一変してしまった。一日たりとも「外事(がいこう)」をおろそかにはできない。
諸君は科挙のための学問に励む余暇時間を使って「譯書」を読み、西欧が如何にして今日の「富強」を達成したかを学び、「千年陋習迂見(トンチンカンなうぬぼれ)」を一変させる策を考え出すべきだ。これこそが「聖賢の心術」であり、「有用の學術」というものだ。科挙こそ「天下を誤らせるの本」である――

 ここまで聞くと、「衆、或は否、或は然。議論紛然として遂に其の要領を得ずして散ず」。ということは議論百出で結論が出ぬままに10数人は岡の許を辞去したということだろう。

「千年陋習迂見」を今風に言い換えれば、やはり「中華民族の偉大な復興」ですね。《QED》

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2015年10月02日

【知道中国 1300回】  「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡41)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1300回】         一五・九・念九

 ――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡41)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 11月5日の日記には、当時の北京で10数人の西洋人が西洋の書籍の翻訳に当たり、『萬國公法』『格物入門』『化學指南』『法國律例』『星?指掌』『公法便覽』『富國策』『英文擧隅』『俄國史畧』『各國史畧』『格物測算』『公法會通』『算學課藝』などが出版されていたことが、翌日(6日)には同治元年(1861年から62年)に設立され、「英法普俄四國之學」を8年課程で教育する同文館の概容について記されている。

 同治元年は高杉晋作らが上海を「徘徊」し、またイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどが北京条約を根拠に北京に公使館を開設した年でもある。つまり清国との国交がなかった日本とは違い、欧米列強は正式な外交関係を結び、中国への拠点を着々と築いていたということになる。ここでも日本は後発だったのだ。

閑話休題。

 この頃から、岡は中国人の対応に不満を漏らすようになる。それというのも、面談希望を相手が避ける様子がみられるようになったからだ。じつは岡は「中土」への来遊以前に友人宛に手紙を出していたが、何人かからはナシのつぶて。北京到着後に来意を告げるも、またしても返事がない。かくて、他の知己に次のように伝えた。

――「中土」では礼を貴び、礼においては交際を重んずるはずだが、来意を告げても返答すらしない者もいる。ということは、「中土」では既に礼が久しく行われてはいないということか。日本人が「中人」と接する場合、礼を十二分に弁えている心算だが、「中人」が我が日本人と会見するは身の汚れとでも考えているのか。小国が大国に交際を求めるとは、大国が小国に対するとは、こういったことなのか(11月10日)――

 最初のうちは「我が国でも維新前は欧米人を忌避したいたと同じだろう」などと余裕を見せていたものの、さすがに腹に据えかねたらしい。憤懣やるかたない岡の心情が伝わって来るようだが、岡の弁を聞いた知己は、「黙然」としたままだった。そこで「こんな『狂言』を吐く心算はなかったのですが、あなたから問われたからこそ、敢えて思うが儘を述べたまでです」と。すると先方は岡の著書の素晴らしさを讃え、自らの蔵書から何冊かを取り出し岡に与え「これにて遠方からお訪ね戴いた『厚意』に謝します」と。かくて岡は、「中土の人、既にして皆、浮夸(おおげさ)なり。信義無し」と断言した。

 11月12日、北京を離れ西南に位置する保定を経て天津に戻る旅に出立する。市街地というのに道路中央は凹状に深く抉れ溝になっている。「深泥尺餘」で馬は泥に足を取られ、両輪は泥に没し馬車は暴風吹き荒ぶ激浪に翻弄される船のように上下左右前後に揺れ、生きた心地がしない。雨が降らなくてもこれだから、大雨にでも遇ったらどうなることか。

――中土旅行極難。道路凹凸。驛舎隘陋。寝食器具。一切携帶。已投旅店。僕吹火炊飯。不具湯沫。不設被蓐――

 かくて「倦めば茶店で一服し、疲れたら馬車を雇うことのできる我が国の旅とは雲泥の差だ」と洩らす。ともかくも酷い情況だったことが十分に伝わって来る。旅先でも来訪者に律儀に応対する。その人が、「日東(にほん)」は古い国なのに何故に「歐服」を着ているのかと。そこで岡は日本でも服装について朝廷内に異論が続出したが、利便を考慮した明治天皇の一声で「斷然として改制」されたと語った後、「『中人』は自らの『衣冠文物』を誇ってはいるが、よくよく考えれば現在の服装は『滿服』であり、制度は『滿制』ではないか。本来の『衣冠文物は亡くなり已して久し』」と応えた。

 日本の服制に疑義を呈すが、漢民族を征服した清朝、つまり異民族の服装や制度を誇る。異民族に征服されたことを自慢していると同じではないかと、岡は疑問を呈す。《QED》

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2015年06月13日

【知道中国 1245回】 「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1245回】           一五・五・三一

 ――「清人の己が過を文飾するに巧みなる、實に驚く可き也」(尾崎2)
 尾崎行雄『遊清記』(『尾崎行雄全集』平凡社 大正十五年)

 当時の上海は新開の地である「英佛米租界」と、城壁に囲まれた「支那人の住する」城内とに分かれていた。後者こそ「眞の上海」であり、ここに足を踏み入れて初めて上海を見たといえる。そこで、尾崎は「上海の地理に熟する者に會する毎に必ず先導」を依頼した。だが、不案内、あるいは多忙を理由に断られてしまった。小室と福原とが運よく案内役を買って出てくれたので、2人の先導で「眞の上海」に向うこととなった。

 城内の道は人力車すら通れないほどに極端に狭いから、城門の前で人力車を降りる。すると「汚穢甚だしうして臭氣鼻を衝くが故、各皆巻煙草に點火して防臭劑と爲す可きを以てす」と。そこで尾崎も火を点ける。日頃はタバコを嗜まなかったそうだから、尾崎も咽せかえったことだろう。準備できたところで、「眞の上海」の探索の始まりはじまり〜ッ。

 まず城門の上に据えられた大砲。古色蒼然として、どう見ても300年以上昔に造られたものとしか思えない。近くに「赤色の粗衣を穿ち垢面亂髪或は坐して煙を吹き、或は椅に倚て假眠す」る「數名の賤丈夫」がいた。てっきり乞食と思ったら、じつは「城門を守る武夫」だった。超旧式の大砲に乞食と見紛うほどの弱兵。これでは城門防備の役に立つわけがない。やはり「眞の上海」は清国の真実――無様さを象徴していた。

 「街衢」は極めて「狹隘」。小石で舗装してあるが、「汚物穢品石路に散亂し、少しく注意を怠れば忽ち衣を汚すの恐あり」。道を先に進むほどに店舗は建込み、道はいよいよ狭く感じられる。進めば進むほどに悪臭が鼻を衝き、「同行の士皆鼻を掩ふ」。さらに進むと、ゴミだらけの薄汚れた溝に小汚い小橋が架かっていた。「支那人文字に巧み」だから、きっと想像もできないような「美名」を付けているだろうと思いきや、案の定である。なんと「北香花橋」というではないか。噴飯、これに尽きるというべきか。次に出くわしたのが、濃い黄色に濁った水面がブクブクと泡立ち、悪臭が噴き出している池だった。そんなキケンな池の中央に浮かぶ四阿が「湖心亭」で、そこに通じるのが「九折橋」。湖心亭では、いまや労働者たちが「裸體にして茶を飲み煙を喫す」。

 かくて「總て支那人は文字使用するに巧みなるが故、地名人名其他文字上に現はる者を見れば甚だ美にして慕ふ可きに似たりと雖ども、就て其實を察すれば忌む可く厭ふ可き者多し」ということになる。この尾崎の考察に従えば、毛沢東の「人民のために服務せよ」から始まって、習近平政権が掲げる昨今の「一帯一路」「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」まで、「其名の美なるに迷うて其實の粗惡なるを忘るゝ勿れ」ということになるのだろうか。

 尾崎は「眞の上海」の探索を続ける。

 関羽廟に詣でたが、「結構粗ならずと雖ども汚穢厭ふ可し」。廟を辞して進むと、「惡臭uす甚だしく、間々無蓋の糞桶を擔ひ走て狹路に過ぐる者あり」。こんなものにぶつかったらひとたまりもない。全身が黄金色に染め上げられてしまう。とはいえ、それを避けるには店に飛び込むしかない。かくて「無用の品物を買うて漸く汚瀆の難を免るゝを得たり」。

 とにもかくにも雑然極まりない街全体を、ジットリと悪臭が包み込んでいるようだ。「眞の上海」を概括するなら、「街衢頗る狹少にして溝渠縦横に通じ水陸共に甚だ汚穢なり」。だが、それでも「他の都邑(北京南京其他の大都)に比すれば清潔なりと云ふ」というからには、北京や南京は想像を絶するほどの汚穢ということになる。

 「城内にて見聞せる事項中奇なる者甚だ多」いが、なかでも「罪人を路傍に放置し、其路人を見て錢を乞ふことを許すの一事」には大いに驚く。しかも「罪人は毫も之を耻ぢず」という。さて、この錢は最終的には誰の手中に。役人、罪人、それとも折半?《QED》
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2015年05月26日

【知道中国 1242回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室19)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1242回】        一五・五・念五

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室19)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 小室に従うなら、当時の北京、少なくとも外城と呼ばれる庶民の街を散策する際には、目に染み入るような強烈なアンモニア臭を覚悟しなければならなかったということだろう。

 ところで「サテ此ノ滿城ノ人畜ガ垂レ流シタル糞矢ハ如何ニナリニユクモノ」と小室ならずとも疑問に思うところだが、じつは「拾糞人アリテ日々街上ヲ駈廻リテ此ノ糞穢ヲ拾採シコレガ爲ニ路上ノ糞土モ新陳代謝ナシテ便通ノ餘地アルヲ得セシムモノナリ」。つまり拾糞人が日々片づけるから、街路から糞便が消える。糞便が消えた街路で、またぞろ人々は5人、10人とシリを捲って蹲るという寸法だ。だから拾糞人が消えてなくなれば、ほどなく「北京ノ街道糞ノ爲メニ壅塞シテ通ゼザルニ至ラン」。つまり糞便の山に埋もれてしまう。天子の都も糞便塗れとは洒落にもならない。「實ニ想像スルモ畏ルベキ事」ではある。

 小室は、よほど好奇心の強い人らしい。「拾糞人」が拾い集める「滿城ノ人畜ガ垂レ流シタル糞矢」の行末が気になり、「馬車ヲ飛バシテ城外」に向かった。城門の1つである「安定門外ヲ過ギタルニ一陣ノ秋風臭ヲ送リ來リ穢氣鼻ヲ衝キ殆ト堪フベカラザル」ほど。そこで悪臭のする方を眺めると、「左邊城壁ノ下ニ於テ數基K色ノ丘陵アルヲ發見セリ」。ここで注目すべき「K色ノ丘陵」だが、これこそ「則チ糞山ナリ」。

 じつは「拾糞人」は街中で拾い集めた糞穢を運んできては、「泥土ニ和シ炭團様ノ糞塊ヲ作リ積ンデ丘を爲シ日ニ曝シ乾燥シテ而乄後ニ之ヲ苞ニシ以テ南方諸島ニ輸送シテ肥料トシテ利ヲ得ルモノナリ」と。つまり北京の人糞は土と混ぜられ団子状に固められた後、肥料として南方諸島に送られていた。人糞は輸出用肥料の原料であり、安定門外は外貨獲得のための肥料製造工場ということになる。モノを無駄にしないというべきか、一石二鳥というべきか、超合理主義精神というべきか。

 小室は指摘していないが、乾燥著しい冬の北京が心配になった。街路の糞便は水分が蒸発し、粉末と化すはず。そこに朔北から冷たい疾風が吹き付けるや、粉末となった糞便は大気中に飛散する。それが通行人の目に入り、口に飛び込み・・・いや、これは杞憂というのか。そんな“些末”なことを気にしていては、生きてはいけなかっただろう。

 小室は「北京城内ニ於テ不潔ニ次ギテ困難ヲ覺エシハ塵埃ナリ」と記した。汚染の程度は「天ニ漲リ漠々トシテ日ヲ蔽フ」ほどであり、「塵埃ノ起ル甚シキヿ殆ト東京ニ十倍スルモノナリ」と見做している。かくて、風の吹かない日であっても、「馬蹄一タビ蹴レバ烟塵天ニ漲ル詩人所謂車馬塵馬蹄塵ナル者是ナリ」と。ともかくも一たび外出したら、頭の先から靴の先までが白灰色に変色することを覚悟しなければならない。

 北京の市街のみならず郊外でも道路は劣悪な状態。「大道モ土崩レ石飛ビ泥濘狼藉タリ」といった様子で、「幾十百年ノ間修繕怠リシ者カ」と疑問を呈す。

 漢民族が最も崇め奉っている孔子を祀る孔子廟ですら、時の経過の中で壊れたら壊れたまま。瓦は崩れ、屋根にはペンペン草が生い茂り、壁も柱も創建当時の華麗・豪壮さは想像すべくもないほどに廃屋状態になっていたとしても、補修の必要性は感じないようだと、当時の多くの日本人旅行者が共通して呆れ気味に指摘している。これに小室の考えを重ね合わせると、どうやら彼らは時の権威・権力を示す建造物を建設することには強い興味を示しながらも、それを保守・修繕して創建当時の状態を維持することには些かも関心を持たない。いわば造ったら造ったまま。後々までも残そうなどは気にしないということか。

 たとえば北京オリンピックに向け鳴り物入りで建設された多くの施設は江沢民の権勢を示しこそすれ、必ずしも次の胡錦濤の権威を裏付けるものではない。ならば習近平にしても胡錦濤政権時の一切は、やはり好ましいものではないということになるはずだ。《QED》

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