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2015年05月24日

【知道中国 1241回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室18)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1241回】         一五・五・念三

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室18)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)

 小室とは大いに離れてしまったと反省し、ここらで本来の道に戻ることとするが、これからも時と話題に応じて脇道に逸れることを、念のため予め記しておきたい。

 さて、小室は清国の武装反乱勢力の動向に注目する。

 山東省で喰い逸れ海を渡って満州で暴れ回る馬賊、「白蓮會哥老會齋徒密徒ノ如キ宗ヘノ力ヲ假リテ愚民ヲ嘨集スルノ匪徒」、「山林ニ潛匿シ時トシテ出デ掠ルノ山賊」、「海島ニ據ルノ海匪」など種々雑多な匪賊が中国全18省に満ち溢れ威令は地に墜ちたも同然だ。かりに外国勢力によって北京が押さえられたら、清国崩壊は必至。だからこそ、「東洋ノ政略ヲ談ズル者眼ヲ茲ニ注ガズンバアルベカラズ」ということになる。いわば将来の東洋の動向を考えるなら清朝崩壊という事態を想定しておくべきだ、ということだろう。ちなみに清朝の命脈が断たれたのは、小室の発言から四半世紀が過ぎた1911年に勃発した辛亥革命によってであった。

 政治向きの話はこの辺で打ち止めとし、いよいよ小室の筆は市井の日常に及ぶ。なにはともあれ、とにもかくにも耐えられないほどに汚い。

 「予ハ北京城内ノ不潔ナルヿハ曾テ耳ニスル所有リキ然レドモ堂々タル一大帝國ノ帝都ナレバ斯ク迄ノ不潔ナラントハ想ハザリキ」と。以下、原文を引用しつつ現代風に書き換え、小室の率直な驚きを綴ってみたい。

 ――以前、朝鮮の都に行った際、不潔極まりない街並みに胆を潰したことがあるが、しょせん朝鮮は貧弱国家であり、「取ルニ足ラザルノ國柄ナレバ其ノ不潔モ亦當然ノ事」であり、致し方ないことと我慢したものだ。だが、その朝鮮が大国と尊敬し従属している清国の帝都・北京の不潔さには驚き入った。なんせ「朝鮮王都ニ倍」するほども汚いのだから。

 先ずは繁華街。多くの人々が道の左右に端にしゃがみ込んで大便である。人前で。しかも白昼堂々と。5人、時に10人が突き出したケツを並べて「之ヲ爲ス」。「其ノ爲ス者ハ人ノ之ヲ見ルヿヲ耻ヂズ通行ノ男女之ヲ見テ怪ミヲ爲ス者ナシ」。たしか日本でも20年ほど前までは不届きにも路傍で立小便をする者がいた。だが、まさか昼の日中から、しかも多くの人が行き交う繁華街で大便する者など見たことがない。

 大便がこれだから、もはや小便は勝手気まま。尿意を催すを幸いに所構わずに放つ始末。そこで小便が小川をなすことになる。道端には人糞に加えラクダ、ロバ、犬や豚の糞が並び、「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」。そんなわけで細心の注意をして歩かないと、「足糞穢ヲ履ミ汚サレザル者ハ稀ナリ」。昼間でもこうである。ならば灯のない夜間の道は危険極まりない。ともかくも道路中央を歩かないと、必ずや悲惨な目に遇ってしまう。

 一般の家屋には便所というのもがない。(北京滞在中に小室は)それ相応の邸宅を借りたものの、やはり便所がない。そこで仕方なく庭の隅や軒下で「大小便ヲ爲」さざるをえない羽目となるわけだが、程なくして「邸内ノ空地到ル處糞穢堆ヲ爲シ足ヲ容ルヽノ地ナキニ至」ってしまう。夜は夜で一苦労だ。他人が残した糞便を踏みかねないから、暗闇の中を細心の注意を払って空き地を探ることになる。雨の日は雨で、「甚ダ困難」だとか。それもそうだろう、「右手ニ傘ヲサシテ左手ニ裳ヲマクラザルヲエズ」という始末だから――

 雨の日だからといって、じっと我慢できるものではないだろう。だが、右手で傘をさしながら、左手だけで「大小便ヲ爲」す。う〜ん、これは曲芸としか表現しようはない。ならば当時の北京では、しかるべき地位に在った知識人もまた雨の日には傘を片手に「大小便ヲ爲」していたということだろうか。

 それにしても朝鮮を「取ルニ足ラザルノ國柄」と切り捨てるとは、さすがに小室だ。《QED》
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2015年05月16日

【知道中国 1240回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室17)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1240回】        一五・五・仲三

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室17)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)

 カジノ営業許可証の周囲の壁には、「××華僑學校名誉董事長某某」「××華人商会永遠名誉主席某某」などと記された証書が分不相応に豪華な額縁に納まって掛けられていた。もちろん、営業許可を得た人物と証書に記された某某は同一人である。一方の手でカジノを経営しながら、残る一方の手で社会的名士として振る舞い、裏と表の社会を自由に行き来して影響力を肥大化させ、遂には政治的利権までを手中に収めてしまう。そういえば、かつて「魔都」と呼ばれていた時代の上海の裏社会を仕切っていた大親分の杜月笙も、表社会では心優しき慈善事業家として振る舞っていたものだ。

 どうやら、この手の胡散臭いカラクリは、華人(=中国人)社会に一般的にみられるものかも知れない。いや、表と裏の社会のつながりは時代を越えて万国共通だろう。だが、それにしても彼らの場合、アッケラカンと露骨に過ぎるようにも思える。

 数年前までポル・ポト派の拠点だった街も、ひとたび華人が舞い戻ったら、知らず覚らずのうちに変容してしまうということだろうか。しかも彼ら胡散臭い人士は、プノンペンの政界枢要に通じているだけでなく、香港やら台湾、はては中国の裏社会とも結ばれているらしいというのだから、全く以て始末が悪い。そういえば90年代初頭からの10数年の間、カンボジアは香港や台湾のみならず、中国の指名手配犯の有力な逃亡先といわれたものだ。はたして現在も、そうかも知れない。だとするなら、カオイダン難民キャンプで聞いた「10分の1の人口を占めれば、その街を華人が押さえる」との話は、まんざらホラとも笑い飛ばしていられないようだ。

 ポイペトのカジノ探訪から8,9年が過ぎた2013年の春、プノンペンからバスでホーチミンに向かったことがある。

 ヴェトナム戦争、それに続くポル・ポト政権時のクメール民族主義に基づく失地回復を掲げたヴェトナムとの間の領土紛争、さらにポル・ポト派殲滅のためのヴェトナム軍のカンボジアへの進軍――20世紀60年代から90年代初頭まで続いた戦乱の地は、経済発展への可能性を感じさせた。幹線道路の両側に広がる田園地帯の所々に台湾資本によって造成された大きな工業団地が見られたのだ。ここで作った製品は、カンボジアの主要港であるシハヌークビルに運ぶより、ヴェトナムのホーチミン港に送った方が早くて安価だという。

 カンボジアとヴェトナムとを結ぶ国境関門は、カンボジア領がヴェトナムに鳥のクチバシのように大きく入り組んでいることから「オウムのクチバシ」と呼ばれ、ヴェトナム戦争時には激戦地として知られたスバイリエン州のヴァベットにある。

 ヴェトナム側に入国すべくヴァベット(華人は「巴城」と表記)に到着して驚いた。幹線道路の両側には長閑な田園地帯の周囲とは不釣り合いなほどに豪華なホテルが立ち並んでいたのだ。しかも巴域木牌園大酒店娯楽城、巴域冠賭城和酒店、新世界娯楽城大酒店など麗々しく漢字の名前の大きな標識が掲げられている。聞いてみると全部で12軒。そのすべてがカジノ(漢字で「娯楽城」「賭城」と表記)を併設、いやカジノがホテルを併設しているというべきだろう。客の殆どは、週末にカジノ目当てにヴェトナムからやってくる華人客だとのこと。

 西のポイペトはポル・ポト派の拠点であり、カンボジア内戦時の攻防の地だった。東のヴァベットにはアメリカ、カンボジア、ヴェトナムの3国の兵士たちの血が染み込んでいる。カンボジアの現代史を象徴する東西の2つの国境の街は、戦乱が収束するといつしかカジノの街へと変貌を遂げていた。しかもカジノ営業者も、一獲千金の夢を追って遊ぶ客も共に国境を跨いで広がる華人社会から・・・一筋縄ではいかない方々、ではある。《QED》
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2015年05月07日

【知道中国 1237回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室14)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1237回】         一五・五・初六

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室14)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 モノは序でというから小室を離れ、もう少しカオイダン難民キャンプでの思い出を敢えて続けてみたい。以前、書いたことがあろうかとは思うのだが。

 難民を一般タイ社会と遮断・隔離するため、キャンプの周囲は有刺鉄線で厳重に囲われ、その外側にタイ国軍兵士が一定間隔で立ち、警戒に当たっていた。当時、タイ国軍最高司令部のトワントン大将に直接尋ねたところ、ここに逃げ込んで来た難民は14万人前後ではないかと見積もっていたように記憶している。厳重警戒のゲートからキャンプに足を踏み入れると、ラテライトの赤茶けた土の上に竹の柱にニッパヤシの壁と屋根の難民小屋が延々と続く。季節は乾季。土埃の舞い上がる中心部を貫く通りの左右には美容院、理髪屋、雑貨屋、衣料店、食い物屋台などが立ち並び、ちょっとした田舎町の雰囲気だった。

 食い物屋台の調理場を覗くと、相当に使い込まれた中華料理用の本格的調理器具が目に入る。華人といった雰囲気の年長者を捉まえて中国語で尋ねると、予想通りに中国語で答が返って来た。彼が屋台の老板(おやじ)だった。言葉の問題は消えたから、これで安心。

 もとはプノンペンで中華レストランを経営していたが、ヴェトナム軍によってプノンペンが陥落するや、必ずや生まれるはずの大量の難民はタイ国境を目指す。国境のタイ側には難民キャンプが設営されるに違いないから、そこで食い物屋台をはじめれば絶対に儲かる。かくしてポル・ポト政権時代に某所に隠しておいた調理器具を引っ張り出し家族全員で運んび、西方のタイ国境に向かって歩みを続ける大量の難民と共に国境を越えた。途中、地雷原を突破する時は生きた心地はしなかったが、なんとか無事にカオイダン難民キャンプに辿り着き、こうして商売に励んでいる――というのだ。

 難民キャンプでの食い物商売の可能性に賭け、敢えて巨大な鍋やら釜を背負って命懸けで地雷原を突破する姿に、カネ儲けに対する空恐ろしいばかりに凄まじい執念を感ずると同時に、些かの感動と滑稽さとを覚えたことを記憶している。「儲かっているか」と尋ねると「馬馬虎虎(ボチボチ)」との返事だった。ということは、どうやら目論見以上の収益、と見た。これをハイリスク・ハイリターンというのだろうか。別れ際、老板は「バーやキャバレーが開店する夜までいろよ。若い娘もいるぞ」と。難民キャンプに嫖(おんな)。ならば大烟(くすり)だってないわけはないだろう。

 屋台を離れ難民キャンプの“メインストリート”をブラブラと歩く。首から高価なカメラを提げた男が寄って来て、中国語で「案内したいところがある」と。その男の後をついて10分ほど。「考衣蘭華人難民営弁事処(カオイダン華人難民キャンプ事務所)」と漢字で書かれた看板の掛かる大型のニッパヤシ小屋に到着した。すると中から数人が。なんでも、ここに収容されている1万4千人ほどを数える華人難民を束ね、自己防衛と相互扶助を進めるための組織であり、ここでの窮状を外部に伝えてくれとの要望だった。

 弁事処はキャンプの外れ。裏手に張られている有刺鉄線の向こう側に、数人のわけありそうな男が立っていた。すると、こちら側から難民が歩み寄り、有刺鉄線越しに何やら話し合っている。弁事処の1人が、逃避行の際に難民が身に着けた金製のネックレスやブレスレットをタイのバーツに交換しているのだと説明してくれた。つまり彼ら難民もまた小室の記した天津の船頭と同じで、紙幣なんぞ端っから信用していない。ネックレスやブレスレットは装飾品ではなく、持ち運び可能な財産なのだ。爪に火を点すようにして稼いだカネで金製品を買い、カネが貯まったら、より高価な金製品を。それを身に着けておきさえすれば、いつ、如何なる事態が起ろうが、現金に交換して生き繋げるというわけだ。

 彼らは明かにカンボジア難民とは違う。敢えて“戦闘的難民”といっておきたい。《QED》

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2015年04月23日

【知道中国 1233回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1233回】         一五・四・念二

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室10)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 「支那ノ國情ニ通ゼザルノ日本人」が撒き散らす弊害は、遠く小室の時代には止まらず、現在にまで延々と続いている。ここで始末に困るのが、「支那ノ國情ニ通ゼザル」にもかかわらず、その自覚すらなく我こそ「支那ノ國情ニ通」じていると自任する方々だろう。さしずめ、かつて肩で風切って歩いていた支那通などは、その悪しき一例といえる。もちろん、「支那ノ國情ニ通ゼザル」ことの弊害を後世にもたらした夥しい数の官民双方の専門家や支那学者、国策策定に与った高級官僚、兵站もままならず敵の背後を等閑視したままに確たる勝算もなく広い大陸での戦争に突き進んでいった帝国陸軍作戦中枢(必ずしも「勝算」がなかったわけではないだろうが、それは妄想に起因する願望に過ぎなかった)、さらには有象無象のメディアなど(その悪しき典型が戦前も戦後も「朝日新聞」だ)――

 自ら思い込んでしまった“バーチャル中国”に、日本と日本人は何度煮え湯を飲まされたことか。いつになったら中国に対する幻想や陶酔から目覚め、等身大の中国とドライに真正面から、日本の立場で向き合うことができるようになるのか。

 「支那ノ國勢ノ日ニ蹙レルヿ今更ニ言フ迄モナシ」とする小室は、そのダメさ加減を、内外政に分けて語る。

 「内ニシテハ政令日ニ弊ヘ百官月ニ怠リ言路壅塞賄賂公行シテ人心離畔シ百姓怨ヲ積ム一朝事アラバ匪徒所在ニ蜂起シテ政令施ス所ナキニ至ラントスルノ勢有リ」

 ――国内をみれば、政治は荒廃するばかりで行われていない。官僚は政務を怠り、官民上下に意思疎通は見られない。賄賂は横行し、人民の怨嗟はいよいよ募る。不穏な情況が発生するや、直ちに匪賊が各地に蜂起し、政治は機能マヒに陥りかねない――

 以上の国内情況に続き、清国を取り巻く国際環境に言及する。原文は長文でもあり、紙幅の関係で聊か整理し、適宜原文を引用して小室の主張を見ておくこととしたい。

 ――いまやフランスという敵を前に清国の敗北は必至であり、その「禍ノ及ブ所測リ知ル可カラズ」。次に控えているのがロシアだ。清仏戦争敗北によって「北京城陥リ邊防人ナキノ日ニ至ラバ其ノ利爪ハ知ラズ」。いずれ「幾百里」をものともせずに侵略してくるだろう。イギリスもドイツも「其ノ表面親睦ノ色ヲ現スモ」、真意は判ったものではない。しかもドイツとフランスは永遠の仇敵だが、目下のところは「隠善」として同一歩調を取っている。イギリスはフランスが宣戦布告前に発した台湾封鎖令を「承認シテ之ヲ拒ムヿナシ」。以上から、イギリスとドイツの真意は明かだろう。「支那國ノ形勢ハ目下恰モ俎上ノ肉ニシテ飢虎其ノ四邊ニ咆哮スルモノヽ如シ」。

 これを要するに「佛人先ズ進ンデ調理割烹ノ任ニ當レルモノ」。次いで「飢虎」であるイギリス、ドイツ、ロシアが清国という「俎上ノ肉」をむしゃぶり尽くすことになる。フランス人が先ず木に攀じ登り、枝にたわわに実った果実を「打墜ス各國筐ヲ提ヘテ之ヲ拾ハントスルモノナリ」。

 では、隣国がこのように亡国の瀬戸際に立たされている時、「日本人ハ何如ガ處シテ可ナルカ」と自問し、小室は「蓋シ未ダ明言シ能ハザルモノアル可シ英雄豪傑ノ士ニシテ始メテ能ク其ノ方ヲ知ルベキノミ」と結ぶ。結論的にいうなら、小室にも明確な方策は思い浮かばなかった――

 小室の説く清国をめぐる内外情勢が現在の習近平政権下の中国にそのまま当て嵌るわけはないが、3月半ばのイギリスによるアジア投資銀行(AIIB)参加表明以後のフランスやドイツの素早い動きを見せつけられると、「飢虎」の伝統は21世紀初頭の現在にも受け継がれているようにも思える。日本の急務は、やはり「英雄豪傑ノ士」の鍛造だろうか。《QED》

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2015年04月04日

【知道中国 1224回】 「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1224回】        一五・四・初四

 ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室1)
 『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
 思えば明治以来の日中関係は、「同文同種唇齒ノ國」×「怨みに報いるに徳を持ってす」×「日本人民も中国人民も同じく日本軍国主義者の被害者だ」によって大きくタガを嵌められ、身動きできなかったということだろう。その果てが、「子々孫々にわたる日中友好」という見事なまでの“戦略言語”である。「英雄ブランド」の中国製ボロ万年筆と共に「子々孫々にわたる日中友好」が真顔で熱く語られていた時代を思い起こせば懐かしく、恥ずかしく、苦々しいばかり。だが日本人にとっての躓きの始まりは、やはり「同文同種唇齒ノ國」というインチキを盲信して(いや正確に表現するなら、「盲信させられて」)しまったことだろう。であればこそ、日本と日本人にとっての中国問題という本来の視点に立ち戻るためには、中国側からする一連のマインドコントロールを解く必要があるはずだ。

 曾根の上海滞在から10年ほどが過ぎた明治17(1884)年8月29日に「東京ヲ發」った小室信介(嘉永5=1852年〜明治18=1885年)は、「清佛ノ戰況ヲ視察スル」ことを目的に上海に向かった。それから2ヶ月ほど、小室は北京、天津にまで足を延ばし、中国要路の人々と面談し、朱舜水の末裔やら王陽明の旧宅を訪ね、『第一遊清記』を書き残した。

 小室は『第一遊清記』の緒言を「清國ノ地理人情風俗兵備等ノ事ヨリ支那人民ニ係ル百般ノ事大率皆ナ意想ノ外ナラザルハナカリキ」と始めた。なんのかんのといったところで中国と中国人に関しては想定内というわけだ。だが、実際に接してみると、聞くと見るとでは大違い。かくて「支那ノ事ハ日本人ノ脳裏ノ權衡ニテハ決テ秤量スルベカラザルモノト知ル可シ」となる。つまり、日本人の常識ではどうにも計りかねるのである。

 その一例として小室は、なにはさて措いて清仏戦争を挙げた。

 清仏戦争(1884年8月〜85年4月)とは、植民地化を狙うフランスと自らの属領とみなす清国との間でベトナムの領有をめぐって争われた戦争である。戦勝することで東南アジアの一角に橋頭保を築いたフランスは、やがて雲南省への侵攻を始めた。これに前後してイギリスはインド東部からビルマを経て西の方から雲南省に食指を伸ばす。いわば清仏戦争は、清国にとっては南方から逼る亡国への危機の始まりであり、英仏両国からするなら中国南方の利権に照準を合わせた利権獲得競争の一環でもあったわけだ。

 当時、この戦争の推移には日本も強い関心を持っていた。そこで『自由燈(自由新聞)』の記者として、小室は上海に急派される。

 「佛艦ガ福州ニ於テ清人ト戰端ヲ開キタルノ警報到着セル後僅ニ數日ノ間ニ」、東京を離れた。戦争が始まったというわけで、押っ取り刀で上海へ駆けつけた。当時の「東京一般ノ感覚ニテハ佛清國兩國既ニ戰ヲ交ヘタルカラハ支那海岸ノ諸港ハ修羅ノ巷ト變ジ東洋ノ天ハ惨憺トシテ消烟彈雨ノ蔽フ所トナリタルナルベシ」。であればこそ、戦地となっているであろう上海に出掛けるのは死地に赴くようなものだ、と思われていた。ところが、「予ノ上海ニ達スルニ及ンデハ平和無事恰モ平日ニ異ナラズ」。そこで小室は「恰モ火事ナキニ走ルノ消防士夫ノ如」しと、自らを自嘲気味に綴った。

 やはり勝手が違う。常識が通じない。これには小室のみならず清国在住の外国人、わけて戦争における一方の当事国民であるフランス人も面食らったらしい。

 小室によれば、フランスは「償金談判ヲ速ニ決了セント」して台湾海域に艦隊を派遣したのだが、「支那ノ如ク一種無頼ノ國柄ニハ毫モ佛人ノ目的」を推量することなく、反対に「攘佛ノ上諭ヲ激出セシメ」てしまった。彼らは「自國ノ爲メニ利uスル所アルガ爲」に「一定ノ規則ニ據ラズ舊例習慣ヲサヘモ顧ミズ自己ノ儘ニ任意ニ之レヲ爲ス」というのだ。「一種無頼ノ國柄」だから「自己ノ儘ニ任意ニ之レヲ爲ス」・・・ヤレヤレ。《QED》

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