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2015年03月26日

【知道中国 1219回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1219回】          一五・三・念五

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添5)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 明治9(1875)年5月2日に北京を発った竹添は、7月20日に「陪都」と呼ばれ、蜀(四川)の中心の成都に次ぐ大都市で、揚子江の本流と嘉陵江に挟まれた要害の街である重慶に到着する。川面から「百八十餘」の石段を登って、やっと城門。さらに「九十餘」の階段を登らないと街には行き着けない。盛夏で水はなく、山の水には瘴気が含まれている。井戸水は飲用には使えない。「烈日赫赫復在洪爐中矣」と綴るが、字面からも夏の重慶の暑熱が伝わって来るようだ。

 とある一日、岩塩を運搬する船に乗った。甲板では年上の男が口角泡を飛ばし、「洪鐘(われがね)」のような大声で叱咤し操船を命じている。手にした太い竹の棒で背中を打ち据えられても、船員は黙って耐える。背中は「紫K色」の傷が層をなしていて、傍から見ても「酸鼻」を極め、気の毒すぎる。

 宿は何処でも「蟲に苦しめられ、安眠する能わず」。薄い紅色で丸く偏平で3つの角を持つ。「臭蟲」と呼ぶとのことだが、「不潔の所に生ずる」。夜になるとモソモソと活動を始め、人の体に纏わりつき、肌に噛み付く。痒くて堪らず、掻くと出血し、化膿する。1ヶ月経っても、傷は治らない。

 生活環境は劣悪だが、自然環境は期待通り。「神飛魂馳(心揺さぶられ魂は飛ぶ)」の境地に誘ってくれた四川の山川草木の姿を、竹添は、自らの漢詩文能力のあらんかぎりを尽くして記している。

 ――たとえば山の形状が「雄偉奇状の観」だとか、瀑布の景観の素晴らしさはどんなに優れた画家でも絵に描きえないだろうとか、急流が岩に当たって水が糸のように飛び散りキラキラと陽光に映え玉のようだとか、やっと流れが緩やかになり街らしい街に近づく様を「千軍萬馬の中を出で、あたかも燈紅酒緑の場に入るが如し」とか、ここは三国時代には魏に属していた地だとか――

 確かに漢文としては素晴らしい。今から半世紀以上も昔の高校時代の漢文の授業で『棧雲峽雨日記』のハイライトの部分を暗記させられたが、それが忽然と頭の中に蘇えり、口を衝いて出てきた。だから、それはそれで懐かしい。だが、余りにも定型化したコレゾ漢文デゴザイマスといった調子の表現が続くと、やはりウンザリで鼻白む。ダカラドウナノ、というのは酷評に過ぎるだろうか。

 明治9年5月2日に北京を発ってから8月21日に上海に到着するまでの苦難の旅には、正直言って頭が下がる。だがやはり肝心なことは、当時の中国のありのままの姿を捉え、民度・民力を的確に推し量ることではなかったか。酷評することが許されるなら、自然を眺め悦に入り、「神飛魂馳」の境地に遊び、漢詩文の力を披歴しても仕方がないだろう、に。

 やはり文久二年の千歳丸一行が残した記録に較べ、『棧雲峽雨日記』の行間からは緊張感が湧き上がってこない。かてて加えて、高杉や中牟田らの振る舞いから感じられた清国と「土人」に対する強烈な関心とある種の同情心が、竹添のそれからは受け取り難い。巻末に寄せた勝海舟、井上毅、中村正直などの「跋」、竹添が旅のつれづれに詠じた『棧雲峽雨詩草』の巻頭に掲げられた福島種臣、中村正直などの「序」の行間からは、なにやら功なり名を遂げた成功者の驕りに加え、今風の表現でいう「上から目線」が仄見えてくる。

 千歳丸の上海行きから竹添の蜀(四川)旅行まで、十有余年が過ぎた。この間、幕府から維新政府へと激変した日本に対し、西欧列強の侵食が進み、相変わらず気息奄々と亡国への道を歩むしかない清国とを比較するなら、ある面では致し方ないことでもあったろう。

 西欧列強の跳梁に清国の混乱・・・我が「対支外交」は、いよいよ本格始動だ。《QED》

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2015年03月20日

【知道中国 1215回】 「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1215回】         一五・三・仲六

 ――「民口無慮四億萬其食鴉片者居十之一」(竹添1)
 竹添進一郎『棧雲峽雨日記』(中溝熊象 明治十二年)
 
 竹添進一郎(天保12=1841年〜大正6=1917年)。号は井井。熊本藩士。生年の天保12年には日本では水野忠邦による天保の改革が断行され、中国では前年にアヘン戦争が勃発し、翌天保13年には南京条約が結ばれている。明治維新においては藩の参謀として働いたとか。新政府の大蔵省に出仕した後、天津領事、朝鮮弁理公使、北京公使館書記官、韓国弁理公使などを歴任。清仏戦争(1884〜85年)の間に朝鮮で起きた甲申事変(1884年12月)において日本軍を指揮。その責任を取る形で公使を辞任。以後、東大で『春秋左氏伝』など中国古典を講義。

 明治8(1875)年11月から在北京公使館勤務となった竹添は、四川からの客の誰もが説く四川の天然風土は一度目にしたら「神飛魂馳(心揺さぶられ魂は飛ぶ)」との賛辞に居ても立ってもいられず、森有礼公使の許可を得て、同僚の津田君亮と共に四川への旅に立つ。時に明治9(1876)年5月2日。1週間後の5月9日には、明治天皇が臨幸され東京上野動物園の開園式が行われている。

 北京を発って西に向かった竹添は、旧都・西安を経て四川入りし、やがて長江を下り上海に到着したのが8月21日。この間の日々を詳細に、しかも漢文で綴ったのが『棧雲峽雨日記』である。明治12年に出版された版本が手許にあるが、巻頭には三條實美、伊藤博文、「欽差北洋通商大臣太子太保文華殿大學士直隷総督一等・・・合肥」と長ったらしい肩書の李鴻章、清末の大学者兪曲園などが題字やら序文を添え、巻末には井上毅、勝海舟、福島種臣、中村正直など維新の元勲などが跋文やら賛辞を寄せているが、ここからだけでも出版当時の竹添の“立ち位置”が尋常ではないことが判るはずだ。

 日記本文に入る前に、先ず「自序」に現れた竹添の中国認識を見ておきたい。なお『棧雲峽雨日記』は題字やら跋文、賛辞を含め開巻第1頁から最終頁まですべて漢文だが、必要に応じて原漢文を示すが、基本的には適宜意訳しておくこととする。

――中国では大商人は財産を擁し店舗を連ね、「緑眼紫髯之徒(せいようじん)」と巨万の利益を争っている。輸出の倍を輸入しているから、負債が増す。ともかくも海外からの新奇な輸入品を有り難がるが、それはまるで盲人が色を選び、聾唖者が音を求める様なもので無意味だ。

 中国は西欧から戦艦兵器を取り入れ、西洋人が考えた運用法を取り入れて富強を目指しているが、同じく海外から持ち込んだものではあるものの、目下のところは、これが最善の富強策だろう。

 これまで禹域(ちゅうごく)を遍く歩き、多くの人々と交流を重ねてきたが、君子は「忠信好學」で小人は力(つとめ)て利を競い、苦労をものともせず、不撓不屈で金儲けに励む。だが社会の上層は「擧業(かきょ)」に囚われ、下層は「苛斂(あくせい)」に苦しめられてきた。だから社会全体は萎縮し振わない。その有様を例えるならば、藪医者の診断を受けた病人のようなものであり、これでは社会が病状を脱し、健康に復するわけがない。日を重ねるごとに病状は悪化するばかりだ。

 だが、完全にダメになったわけでもない。適切な診断が下され、薬が投与されれば、健康を回復し、起つこともできるだろう。だが世間には「蠱惑(おもいこみ)」という病があって、薬を飲んだら脈拍が上がり興奮し、まるで強健になったように勘違してしまう者がある一方、その姿を見て第三者が慌てだすこともある。どちらがマトモなのか。やはり他国の情況を見るとは、そういうこと。容易いことではないものだ――

 かくて竹添は自らの目と足とを頼りに、四川への大旅行に旅立つのであった。《QED》

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2015年03月19日

【知道中国 1214回】 「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根13)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1214回】          一五・三・仲四

 ――「右顧左眄頭ヲ垂レ糞ヲ尋ヌ糞山溺海・・・」(曾根13)
 曾根俊虎『北支那紀行』(出版所不詳 明治八・九年)
 
 その「其狡猾惡ム」べき一例だが、ある村落まで船を進めると、「最初に手渡した費用では、もう先には進めない。いま6元を支払わなければ先には進まない」といって、舟子(せんどう)が櫓を漕ぐのを止めてしまった。そこで最初の話と違うじゃないかと叱り飛ばしながらも「二元ヲ與へ放舟セシメタリ」。かくて曾根は「其狡猾惡ムヘシト雖モ是レ舟子ノ風習ニシテ亦敢テ深ク尤ムニ足ラサルナリ」と述懐している。まあ、相手の足元を見透かしてのブッタクリだが、これもまた「舟子ノ風習」と諦めるしかないのか。

 あるところで休息していると、「不潔ノ土人來看スル者堵ノ如ク拾糞人ノ糞籠ヲ擔フテ四方ヲ圍ミ、甲去レハ乙來リ、孩童ノ滿頭ノ虱白ヲ抹スルアリ」と。物見高いは中国人の常とはいうものの、何処とも判らない田舎町で、「不潔ノ土人」に「糞籠ヲ擔」う拾糞人、頭が虱だらけの子供、ヨチヨチ歩きの纏足女――これだけの人々にワッと取り囲まれたうえに、「嘖々(ピーチクパーチク)トシテ嘈雜(うるさいこと)尤甚シ、加ルニ天熱シ穢ヲ送リ臭來シ其厭フ可キノ狀實ニ筆舌ノ盡ス可キニ非ス」。もはや我慢の限界を超えている。

 3つの「い」――穢い・臭い・五月蠅い――に加えて難儀なのが水だ。水を飲もうと路傍の水売りから買い求めると、「緑色ヲ帶テ臭氣アリ」というからさぞや気持ちが悪かったはず。現在の中国では環境の劣化が甚だしく河川や湖沼が緑色や赤色に染まったなどと報じられるが、日清戦争までまだ10年ほどもあるという時代に、中国内地では「緑色ヲ帶テ臭氣アリ」の水が売られていたというのだから、やはり考え込んでしまう。やはり中国人には環境などという考えは、端っからなさそうだ。

 物見高いといえば、ある「穢塵殊ニ甚シ」い村の宿で夕食を食べていると、「土人來看スル者多ク坐ニ坌入シ、殆ント食事ヲ妨ケタリ」。相手が食事中であろうがお構いなし。ワイワイガヤガヤと曾根を囲んだわけだ。この時、曾根は中国服を身に着けていたから、自分では中国人に見られていると信じ込んでいたらしい。だが、当たり前のことだが、中国服を着たからと言って日本人は中国人にはなれない。とっくに日本人だとお見通しだった。かくて「土人來看」した結果、五月蠅いやら煩わしいやら。ともかくも不味い夕食が終わって粗末極まりない板の床に就くと、「時ニ破窓ヨリ頭ヲ出シテ窺フ者アリ」といった情況。

 曾根は悪戦苦闘の大旅行を、次のように“総括”している。

@:「皆廉耻已ニ絶エ民心殆ント離レ、土人黠詐ヲ尚ヒ唯自己ノ利ヲ計ルニ汲々タルノミ、嗚呼宜ヘナル哉滿清ノ振ハサルヤ、思フニ是レ變換ノ勢ヒ來ル遠ニ非ルノ由縁ナルカ」
――すでに廉耻の心など誰も持っていない。民心は清朝から離れ、中国人はウソ・デタラメばかり。頭の中にあるのは自分の利益だけだ。こんなことだから清朝の弱体化は当然であり、そう遠くない将来、必ずや世の中はデングリ返ることになる――

A:「(山東省は)政体稍存シ風尚樸素ニシテ兵備仍ホ張ル(中略)ト雖モ大廈ノ覆ル一木ノ能ク支ル所ニ非ス、嗚呼區々タル一省ノ山東豈能ク四百余州ノ衰運ヲ挽回スルヲ得ンヤ、東洋慷慨有志ノ徒早ク茲ニ注目シ碧眼ノ猾賊ヲシテ變ニ乘シ毒鋒ヲ亞洲ニ逞ウセシムルヿ勿レ若シ治ニ歸セハ則チ合心合力東洲ヲ振ハシ西洲ヲ壓スルノ急務ヲ策スヘシ」
――ややマトモとはいえ山東省だけでは衰退する中国を救うことはできないことに、「東洋(にほん)」の「慷慨有志」の士は、深く思いを致すべきだ。狡猾な西欧の賊徒による清朝の変事に乗じてのアジア侵略の野望を挫くべし。中国が安定した暁には日中双方が「合心合力」して早急にアジアの振興を図り、ヨーロッパを圧する策を講ずべきだ――

 曾根は「東洲ヲ振ハシ西洲ヲ壓スル」ために日中双方による「合心合力」が急務だと語るが、後の歴史に照らしてみるなら、それは儚い理想、いや夢想・・・何故。《QED》

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2015年03月06日

【知道中国 1201回】 「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1201回】          一五・二・仲三

 ――「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」
 『支那旅行日記』(海老原 正雄訳、慶応書房 昭和18年)

 千歳丸の上海行きが文久二(1862)年。次に扱う予定の『北支那紀行』の前篇が出版されたのが明治8(1875)年で後編は明治9(1876)年。この10数年の間、日本は激動の幕末を経て明治維新となり近代国家に向けて歩みだす。一方の清国は、同治帝から光緒帝へと皇帝が代わったものの、相変わらず続く西欧列強の侵出競争を前に、ジリ貧の道を辿る。

 千歳丸から曾根までの10余年の中国の情況が、どのように日本人の目に映ったかを知りたいと思い、この間の中国旅行記を探してみた。誰か中国に行って記録を残しておいてもよさそうだが、目下のところ手当たりがない。どうやら後日を待つしかなさそうだ。

 そこで、千歳丸と曾根の間の空白を埋める一方、明治の日本人による中国紀行を読むうえで参考にもなるかと思い、ドイツの地理学者・探検家で近代的地形学を創始したといわれるフェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵(1833年〜1905年)の見た中国を、簡単に紹介しておきたい。彼はアメリカから日本を経て中国に渡る。両国共に2回目の旅だった。日本が戊辰戦争に揺れていた頃に北京に到着している。

 1868(明治元年)9月30日の日記に、「支那人たちは、彼ら自身には出入を禁ぜられた首都の城壁(紫禁城)の上を外国人が大手を振って歩き廻るのを、無関心に眺めているが、この事程、支那国民の道徳的低さ、あらゆる自己感情の完全な欠如とを明瞭に物語るものはないようだ。城壁から町を見渡す外国人達を、彼らは屢々寄り集まって物珍しそうに見上げているが、しかしその眺め方は極善良なもので、威嚇もなければ愛国的憤怒もない」と綴る一方、「支那人よりも温和な性格にも拘らず、日本人ははるかに好戦的であり、もっとも自負心を持っている。彼らなら、外国人のかくの如き特権は決して黙認できないであろう」と記している。

 リヒトホーフェンの考えに従うなら、「支那人よりも温和な性格」だが、「はるかに好戦的で」「もっとも自負心を持」つ明治の日本人が相手にする中国人は、「道徳的低さ」の自覚すら持ち合わせず、「あらゆる自己感情の完全な欠如」が認められ、「威嚇もなければ愛国的憤怒もない」ということになる。

 リヒトホーフェンは上海から故郷の両親宛の手紙(日付は1869=明治2年3月1日)に、こうも記している。

 「支那人の性格は我々にとっては非常に特異なものなので、それを完全に理解することは誰にも出来ないです。実に驚くべきは、ヨーロッパ人と支那人が互いに無関心でいることです。私は、両者の間に愛着の関係が生まれている様な場合に一度も出会ったことがありません。主人と犬との間に生まれるような関係さえ見られないのです」

 「香港や上海のような都会では、彼らは(アヘン戦争以来)大凡三十年間も外人と共に暮らして来たにもかかわらず、その生活は殆ど何等の変化も受けませんでした。彼等にあっては、改革は内から起こらなければなりません。それは外部からは来ないのです」

 「それはともかく、支那人たちが、私の述べたような状態にあるのは、われわれにとっては有利なことです。何故なら、もし突然、彼らの知力に相応する程度の教養と精神力を持つに至るならば、支那人達はその厖大な人口によって他の諸外国を圧倒することができるでしょうから。今のところ彼らは貧しい生活に甘んじて、我々に茶と絹を供給するためにのみ存在しているように思われます」

 明治の時代、日本人が相手にした中国人は、その原因はどうあれ、「貧しい生活に甘んじ」るしかなかった。さて彼らは、いつの時代に、「彼らの知力に相応する程度の教養と精神力を持つに至る」のか。明治日本人の中国への踏査・探索の旅の始まり、始まり〜ッ。《QED》
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2015年02月28日

【知道中国 1195回】 「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1195回】             一五・二・初一    
    ――「弟姓源、名春風、通稱高杉晋作、讀書好武」(高杉1)
高杉晋作「遊C五錄」(『高杉晋作全集』昭和四十九年 新人物往来社)

 高杉晋作。生年は天保10(1839)年で、上海滞在時は27歳。帰国5年後の32歳に当たる慶応3(1867)年に没した。これ以上、敢えて記すこともないだろう。

 『高杉晋作著作集』(堀哲三郎編 新人物往来社 昭和49年)には千歳丸での上海行き関連の著作として、「遊C五錄序」「航海日録」「上海掩留日録」「續航海日録」「獨斷に而蒸氣船和蘭國江注文仕候一條」(以上、第一冊)「支那遊私記草稿」「航海日録」「内情探索録」「外情探索録」「支那與外國交易場所附」「長崎互市之策左之通」「外事探索録巻之貳」(以上、第二刷)などが、一括して「遊C五錄」として収められている。

 それぞれに見られる若干の異同を敢えて詮索することなく、専ら高杉の上海体験を追いかけることとしたい。

 じつは千歳丸乗船時、高杉は中牟田と同じように麻疹が完癒してはいなかった。そこで一行に遅れ、夜に入ってから小舟を雇い杖にすがって乗船している。体調に構ってはいられない。上海行きという絶好の機会を逃してなるものか、といったところだろう。

 乗船してみると幕吏と各藩出身の從者、さらに身の回りの世話をする従僕など誰もが初対面と思ったところ、聞き覚えのある声がする。よくよく見ると、昌平黌で1年間席を並べた「浪速處士伊藤軍八」だった。思わぬところで、と久闊を叙したことはいうまでもない。船内の居住環境は劣悪であり、そのうえ病気だったことから、高杉は「終夜遂不得眠也」。

 千歳丸の上海行きについて、「幕欲渡支那爲貿易、寛永以前朱章船以来未嘗有之事、官吏皆拙于商法、因使英人及蘭人爲其介、所乘之船亦英船、船将英商ヘンリーリチヤルトソン、其餘英人十四名乘船、皆關運用之事」――上海での貿易を計画しているが、役人なんて商売が下手だから、イギリス人やオランダ人を仲介役に立てようとしている。千歳丸はイギリス船(じつは千歳丸は幕府が購入したイギリス製の木造船)であり、操船も英国商らに任せている――とする。だが高杉は千歳丸による上海行きの真相を、「内情探索録」に次のように推測する。その部分を現代風に訳してみると、

 ――幕府は上海で諸外国との貿易を掲げているが、おそらく長崎の商人どもが長崎鎮台の高橋某に賄賂を贈り、ボロ儲けしようと企んでいるのだろう。江戸からやって来た幕吏にしても、多くは高橋某の仲間で、海外出張に伴い手にすることができる高額手当を狙っているのではないか。幕吏なんぞは取引については商人や長崎の地役人に任せっきりで、何も知らない。ただ商人からの報告を鵜呑みにして記録するだけだ。商人は通訳を仲間に引き入れ、通訳は何から何まで「外夷」に相談するから、全てが相手にお見通し。かくてイギリス人とオランダ人の好き勝手のし放題ということだ――

 さすが高杉、というべきか。以上は峯・名倉・納富・中牟田の誰も記してはいない。

 乗船したのが4月27日。翌28日は「好晴、船中諸子云、今午後必解纜、而終日匆々、不發船(好天、同乗者は今日の午後には必ず出港するというが、終日、あたふたするばかりで出港しない)」と。そして「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と続けた。

 ――日本人というヤツは、どうでもいいようなクダラナイ物事に拘泥し、いざという時に果断な行動がとれない。こんなことだから、外国人にバカにされてしまうのだ。嘆かわしく恥ずかしい限りだ――

 文久2年から150年余が過ぎた現在、「イスラム国」の脅迫を前にして、情報の「収集と分析」を口にするばかり。高杉が現在の日本に生き返ったら、「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と。呆然・憤怒・慙愧。《QED》
posted by 渡邊 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 考えてみた
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