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2015年02月27日

【知道中国 1194回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田7)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1194回          一五・一・三一

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田7)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 中牟田は「『乙(ヲト)』は漂流して後、上海に住めども、日本の恩義を忘れざる旨を嘗て長崎にて傳聞したりし故、面會して見たしと思ひ、訪問せり」と綴る。すでに長崎でも上海に在住する漂流民音吉が話題となっていたわけだ。

 だが、中牟田が音吉と言葉を交わすことは叶わなかった。妻子を伴い先月上海を離れ外国に向かった。「普魯西亞(プロシャ)人」と結婚し、2人の間に子供は2男1女の3人。長男は8歳前後で、一家全員が西洋人の服装である――これがデント商会の説明だった。どうやら音吉は西洋式の生活を送りながらも、「日本の恩義を忘れ」なかったのだろう。

 後日、中牟田が再びデント商会を訪ね音吉の行き先を問い質すと、シンガポールに行ったとのこと。音吉の弟を称する人物を訪ねたが、日本人であることを隠し、真実を聞きだすことはできなかった。

 かりに中牟田が音吉から話を聞きだすことが出来たなら、アヘン戦争に英国軍兵士として参戦した音吉から、アヘン戦争のみならず英国事情やらデント商会のアヘン商法の一端、さらには上海での交易の実態など多くの情報や知識を得ることができただろう。音吉のシンガポール行きが少し遅く、千歳丸の上海着が少し早かったら、と思うばかり。

 これまた某日、中牟田は高杉と夜間の散歩に出る。横濱滞在歴を持つと自ら語るアメリカ人に自宅に誘われ、大阪港開港問題について問い質された。大阪港が開かれれば直ぐにも向かいたいところだ。当地の新聞では将軍は開港の意向だが、最強硬派の水戸藩を先頭に多くの大名は開港反対の立場をとっていると伝えられるが、真相は如何に。内政上の微妙な問題であるうえに、相手のアメリカ人の氏素性も質問の狙いも判らない。そこで中牟田は答をはぐらかした。一方の高杉は、犠牲を厭わない大義のために勇猛果敢に邁進する水戸藩の動向を、西洋人が注視するのも当たり前だろう、と。

 またまた某日、高杉と連れ立って清国軍の練兵ぶりを見学した。青竜刀やら火縄銃やら。その旧式ぶりに唖然とする。帰路に南大門を守備する知り合いの所に立ち寄り問い質すと、やはり洋式銃を使って、英仏兵の指導・支援を受け入れた場合には、太平天国軍も恐れるに足らず、と。かくて2人は、やはり中国伝統の兵術は西洋銃隊の前では全く意味をなさないことを知る。西洋諸国の圧倒的軍事力を前にしては、勇ましくはあるが攘夷の掛け声は所詮は蟷螂の斧にすぎないことを悟ったのではないか。

 中牟田の経歴を見ると、長崎海軍伝習所を経て佐賀藩海軍方助役。維新後は海軍に奉職し、草創期の海軍兵学校教育の基礎固めに尽力し日清戦争前には海軍軍令部長に。栴檀は双葉より芳しいの伝で、上海滞在中、航海術について熱心に学ぼうとしている。

 高杉は「上海掩留日録」に、宿舎に留まって中牟田と共に「航海有益之事」を論じた旨を記し、「運用術、航海術、蒸氣術、砲術、造船術」などの航海学全般の「科課程」を学びたいとの中牟田の念願を書き留めている。この時、中牟田は病床に在り、高杉は看病の傍ら筆録したことだろう。

 尊皇か佐幕か、攘夷か開国か。現在のように即時的でないことは当たり前だが、風雲急を告げる故国の情勢は遠く上海の地のも逐一伝わる。浮足立つ中牟田、高杉ら。一方の幕吏にしても当初の目論見は大外れ。日本から運んだ千歳丸積載の貨物は思うようには捌けない。長逗留すればするほどに損失は募る。そうなったら、責任が発生してしまう。だが責任は負いたくない。逡巡の末、上海出港を決定した。

 かくて再び荷物を積み入れ、外交儀礼に従って道台への挨拶も終えて乗船した。乗船以来黄疸を患い、中牟田は船中病臥したままで、風雲急を告げる日本に戻っている。《QED》

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2015年02月26日

【知道中国 1193回】  「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田6)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1193回】          一五・一・念九

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田6)
「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 凡そ交渉事は、相手を相手以上に知り尽くしたうえで臨むべきものだろう。にもかかわらず、幕吏には事前の周到な準備がなかったようだ。そこで勢い、ぶっつけ本番。かくして無手勝流に奔る。「受太刀もしどろもどろとな」り、結果として口を滑らせ「餘りに正直なる應答」をしてしまい、相手の術策に嵌りこみ、言質を与えてしまうのが関の山。こちらの狙いは相手に見透かされてしまう、という悲惨な結果・・・トホホ、である。

以上を中牟田の評語で綴れば、道台の「辭令巧妙」に対するに、「先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり」。「探らるゝ質問」に、如何せん「受太刀」。「質問益々鋭利」になるばかりで、「受太刀もしどろもどろ」。「追窮少しも緩まず」、答に窮して「赧顔の至り」。「知らんとする要領は皆知りたり」と相手の余裕十分な態勢に引きずり込まれ、思わず「餘りに正直なる應答」に逼られる。そこで背中を冷たい汗が流れる始末。かくて「流石に氣の毒にもあり」と「温顔にて慰め」られれば、冷や汗を拭き拭き「吻とす」・・・これでは外交交渉を有利に進められるわけもなく、外交上の果実を相手に献上したも同然だ。

だが、これだけでは終わらない。次なる舞台が設えてあった。別室での宴席である。

極度の緊張から解き放たれたからだろう。ついつい口が軽くなる。宴席で幕吏は1842年の南京条約で対外開放された上海・寧波・福州・厦門・広州の5港のみならず、天津・漢口への日本船の入港は可能かと尋ねた。道台は「差支えなし」と応じているが、その種の質問は正式交渉の席で問い質すべき事項だろう。酒席での話はその場限りで、公式発言とは見做されない。おそらく道台は幕吏の外交音痴に呆れたはず。

 だが、その続きがあった。道台が去った後、なにを思ったのか幕吏は突然オランダ公使に向かって、「道臺は才子と相見え申候(いや〜、道台はデキ申す)」と。加えて、あろうことか「遊女等に出産せる小兒は、本國に伴ひ歸りて宜しきや」などといった愚にもつかない、いや相手からバカにされるに決まっている質問まで。主張すべき場で主張すべきを口にせず、いうべからざる席でいわずもがなを話題にする。オランダ公使を“身内”と思い込んでの軽口だろうが、味方は敵に、敵が味方に豹変することを肝に銘ずるべきだ。軽率が過ぎる。交渉担当者としては最悪・最低の振る舞い。バカにつける薬はない。失格!

 中牟田のみならず高杉もまた、千歳丸の幕吏は役不足の小役人であると綴っているところからしても、交渉不首尾の原因は幕吏の能力不足に求められそうだが、やはり長かった鎖国もまた大きな要因として考えるべきだろう。

 それしても、である。すでに幕末の時代から外交交渉下手だったとは。「勝ちに偶然の勝ちあり。負けに偶然の負けなし」とはプロ野球の野村元監督が口にする“格言”だが、確かに負けるべくして負けたというのが、道台対幕吏の談判だったように思える。あるいは文久2(1862)年の上海での外交交渉の席における幕吏の振る舞いがトラウマとなって、現在まで続く日本の対中交渉を縛ってきたのではなかったか。そう“牽強付会”でもしないかぎり、日中国交正常化交渉以後の一連の対中外交の弱腰ぶりは説明できそうにない。

 中牟田は英語が達者であったからか、イギリス、アメリカ、オランダ、ベルギー、ポルトガルなど上海在住の欧米人と精力的に接触を重ねている。なかでもジャーデン・マセソン商会と同じく鴉片貿易で財をなしたデント商会を2回訪ねているのが興味深い。両商会は開港場となった横浜に最初に支店を置き、阿漕な商法で日本の業者を翻弄したことで知られる。それもそのはず。彼らは海賊の子孫、いや海賊のDNAを持つ商人なのだから。

 デント商会を訪ねたのは、同社で働いていると長崎で聞いた尾張の漂流民の「乙(ヲト)」と面談したかったからだ。「乙」とは、拙稿1147回で話題にした登場した音吉である。《QED》

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2015年02月25日

【知道中国 1192回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1192回】           一五・一・念七

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田5)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 某日、幕吏はオランダ公使の許を訪ね、千歳丸による渡航の当初目的である上海港での貿易の可能性について打診している。石炭やら人参やら、持参した品々が当初の目論見と違って売り捌けそうにない。オランダ側は値引けば売れると助言するが、長崎の相場に較べ安すぎる。かくして、持ってきたものをそのまま持ち帰るしかなかった。残念ではあるが、これが国際貿易の現実だったのだ。

 某日、道台がオランダ公使を訪問するというので、日本側はオランダ公使の許に出向き、道台と会談することとなった。そこで中牟田の記録に基づいて、その場の遣り取りを再現してみたい。なお●は幕吏、■は道台で、それぞれの話を簡略に現代語訳。中牟田の評語は原文のままとし《 》で括っておいた。
 双方の挨拶終わると、

■過日は当方をお訪ね戴きながら、返礼が遅れ申し訳ない。
《呉道台の挨拶也。辭令巧妙、先を越されて幕吏聊か狼狽の氣味あり》
●過般は一同過分な饗応に与り感謝致します。
■商売の手応えは如何ですか。
 《探らるゝ質問なり。幕吏受太刀となる》
●あまり捗々しくありません。
■ともかくも初回でもあることですし・・・。
 《質問益々鋭利、受太刀もしどろもどろとなる》
●帰国後、政府に報告したうえで再度の訪問もありますので、その旨をお含み願いたい。
■持参された物資は残らず捌けましたか。
 《追窮少しも緩まず。幕吏赧顔の至りなり》
●残らず捌くつもりでおりましたが、いまだ所期の成果を挙げてはおりません。
■上海には何時頃までご滞在で。
●未定。日本人には芳しくない気候でもあり、持参物資が売りさばけ次第、可能な限り早めに貴国の心算です。
《知らんとする要領は皆知りたり。餘りに正直なる應答にて、流石に氣の毒にもあり、道臺、温顔にて慰めて曰く、》
■上海は貴国と近い。蒸気船なら2,3日で往復できますので、時々、お越し下さい。
  《道臺を免れて幕吏吻とす》
●近日中に道台の役所に参上し、種々ご相談致したく。
■過日は結構な品々を賜り深謝。日々、楽しんでおります。
●つまらないもので恥じ入る次第です。(原文は「些少の品にて恥入候」)
■日本製品は殊に品質に優れており、驚くばかりです。

清国は亡国の瀬戸際に立ち、上海は英仏両国に守られて僅かに命脈を保つ始末――まさに惨状というべき情況だが、緩急自在で巧妙な外交手腕は健在だったらしい。その姿は、「餘りに正直なる應答」に終始する幕吏とは対照的だ。時にたわいのない挨拶で、時に日本製品の素晴らしさを讃えて座を和ませ、肝心の貿易工作が不調であることを探り出す手腕に幕吏はタジタジ。「道臺を免れて幕吏吻とす」とは、道台に翻弄されるがままに終始した「受太刀」の幕吏の緊張が解けた瞬間の姿が浮かぶようだ。まさにホッ。

だが、これは幕末だけに限るまい。共産党政権成立以後、いや、それ以前にしても、日中交渉に際し、日本側は「餘りに正直なる應答」に終始しすぎたのではなかったか。《QED》
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2015年02月24日

【知道中国 1191回】 「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田4)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1191回】          一五・一・念五

 ――「支那之衰微、押て可知候也」(中牟田4)
 「上海行日記」(中村孝也『中牟田倉之助傳』大正八年 中牟田武信)
 
 上海のブザマな姿を、中牟田は綴る。

 「一、孔夫子之廟、當時別所に變じ、英人の陣所と相成居申候由、誠に可憐也。

  一、賊亂を遁れ來り小舟之内、又は土地に蓙を張、雨之防を致し、其内に住居致し居候者多數、地行人數之半も可有之歟。其故平生乃上、猶又キタナク有之候由、右之者共之様子を見候に、誠に可憐也。

  一、所々に英佛兵野陣を張居候事。

    附り、帆木綿にて拵たるものを地上に張り、雨防致し居候事情。」

 ――中国文化にとって至誠・至高であるはずの孔子像すらもが取り外され、別の場所に移動された挙句に、聖域中の聖域であるべき孔子廟は英軍兵士の宿営と化した。太平天国を逃れた無辜の民は、到る所で悲惨極まりない難民生活を余儀なくされている。上は至誠・至高の孔子から下は無告の民まで、「誠に可憐(誠に憐れむべ)」き情況に在る。一方、英仏軍兵士は各所にテントを張って駐屯している――

 すでに清国は清国でありながら、じつは清国ではない。自分の国でありながら、自分の国ではない隣国の姿を目の当たりにして、中牟田は清国側に立つイギリスの狙いを推測してみた。

 「長毛賊、耶蘇を信ずる様子、外國器械を多く用いゆ。大砲なども外國砲を用ゆる様子(小さい字で「英人云亞米利加人與之、或云英人私に與るならん」と注記)/英吉利斯は、表は爲清朝、長毛賊を防ぐと申し、内には長毛賊に好器械などを渡し、私に耶蘇ヘを施し、其實は、長毛賊を以て清朝を破らしめ、己清朝を奪ふ落着ならん。又毛長之方には、豫め耶蘇ヘを信じ、英吉利斯などを己が身方に致し遂に清朝の天下を奪ひ度、落着なり。天下を奪候得ば、英吉利との儀は如何とも可相成と策謀なせし様思はる。」

 ――太平天国はキリスト教を信じているとのことであり、西洋の武器を多用している。大砲なども西洋製だ。(イギリス人はアメリカ人が供与しているというが、イギリス人が秘密裏に渡しているとも伝えられる)イギリスは表面的には清朝のために太平天国の攻撃を防禦するなどといってはいるが、内々に太平天国側に高性能兵器を供与するだけでなく、秘かにキリスト教を布教している。ということは、じつは太平天国によって清朝を敗北させ、清国を奪い取ろうという魂胆ではないか。天下を奪い取ってしまえば、中国は自分のものといってもいい。思うがままだ。これがイギリスの策謀というものだろう――

 おそらく中牟田は、清国における清朝と太平天国の対立と混乱に対処する英仏両国の振る舞いから、英仏両国の日本における策動に思いを巡らしたに違いない。勤皇か佐幕か、攘夷か開国か――終わりなき死闘が繰り返され、社会の混乱と動揺が続くなら、その間隙に乗じた英仏両国が日本を属国化させないとも限らない。今日の清国が直面する悲惨な姿が、明日の日本に重なってきたはずだ。

 かくて中牟田は俄然、太平天国研究をはじめる。6月12日にミューヘッドと称するイギリス人から太平天国について書かれた4冊の本を借り、翌日は「終日寫本」。19日から27日までも宿舎に留まって「賊の書」を写した。「上海滯在中雜録」には『太平軍目』『太平禮制』『太平條規』『建天京於金陵論』などの書名が記されているが、これらを購入したのか。ところで高杉晋作が「外情探索録 上海総論」に「中牟田所寫之書、天理要論、〇太平詔書、太平禮制、天命詔書、〇資政新篇、看鼻隨聞録」と記しているところから判断して、宿舎での同室が関心を抱くほどに、中牟田は太平天国研究に打ち込んだようだ。

 崩れゆく清朝の背後に英仏の侵略の牙・・・中牟田の心は奮える。日本危うし。《QED》
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2015年02月19日

【知道中国 1185回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1185回】          十五・一・仲三

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野12)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 長崎での帰国第一夜。食事を終えて「窓ニヨレバ、燈火マタ山ヲ焼クゴトシ。ソノ景佳ナリ」。折から長崎では、祖先供養の日々が続いていた。暗い夜空に、祖先を祭る灯か赤々と映えていたのだ。日比野の目と心に、祖国の美しさがいっそう深く染みたことだろう。「ソノ景佳ナリ」の6文字から万感の思いが伝わってくる。

 千歳丸での日々を綴った「贅肬録」は、「(七月)十六日 晴 郷書ヲシタゝメ着船ヲ告ゲテ心快然タリ」の一行で終わっている。安着の知らせを故郷に届けたのであろう。

 やがて「眼孔穴ヲナシ頤トガリ面色土ノ」ような面容も旧に復し「西土ノ辛勞」も癒え、気力も体力も回復したに違いない。3ヶ月ほどが過ぎた後、もう一つの上海滞在記である「没鼻筆語」を「文久二年戌十月上幹」の日付で著した。

 冒頭に置かれた「没鼻筆語引」に日比野は、上海で交友を重ねた人物は数十人を下らなかったが、なにせ言葉が通じない。やむを得ないことではあるが、互いに相手を見つめるしかなく、そこで筆談ということになった。意気投合した6人との日々の会話を記録し、まとめた――と記す。

 先ず日比野が、「かねて貴邦の文物を葵向(した)っており、思いがけずに今日という日を迎え素志を遂げ、これ以上の幸せはなし」と。すると相手が「長年、帰国の俊才を仰望していたところ、本日、ここでお会い致し、思慕の心を遂げることができました。長らく滞在され、御教えを願いたい」と。先ずは双方の社交辞令の後、日比野が「万里隔絶した間柄。今日、こうしてお会いでき、幸いこれに過ぎるものはない。私は『日本狂生』にて、同学を求めておりますゆえ、『請戰筆舌(筆舌にての戦いを所望致します)』」と切り出すや、相手は「甚是、甚是(望むところ)」と応じた。

 詩文の交換を手始めにして、互いの教養の程度を探った後、やおら日比野が「いくつか尋ねたいが如何」と問い掛けると、「不敢當(ご随意に)」

 日比野が投げ掛ける様々な質問の内容から彼が何に関心を持っていたのか、いいかえるなら何を探り出そうとしていたのかを知ることができるはず。そこで、以下、日比野が記録した順番に従って主な質問と返答を簡潔に示しておきたい。

●学校教育制度の変遷⇒歴史的経緯を踏まえた詳細に現状を説明

●目下の軍事最高指導者⇒曽国藩

●目下の軍事指導書⇒茅元儀が著す『武備志彙』

●国家にとって第一級の犯罪⇒殺人罪と反逆罪

●官僚の位階の弁別方法⇒被り物が官位の違いを表す

●子育て不能の場合⇒育嬰堂で引き取って育てるが、時に他人の義子となる

●病気の貧乏人に対する支援方法⇒金持ちの寄付金で経営される賜醫賜藥堂が担う

●かつては農業を勧める書籍があったと聞くが⇒現在は失われた

●堤防の修理方法⇒築城方法と同じ。板の中に土を入れ固く固める板築法

●通貨(銀貨)偽造の罪⇒死体を晒しものにする棄市

●貧乏な親に捨てられた子供の養育⇒各州県に設置された育嬰堂に委ねる
――この回答に対する日比野の感想は、「宋朝は慈幼局を設け、貧民の子弟を養育している。実に素晴らしいこと。貴邦の幼童養育の姿は宋朝の如きものだ」

●蝗などの害虫対策⇒官の報奨金を受け、庶民は害虫を捉え地中深くに埋める

●太平天国を避け上海に逃れる役人への処遇・罰則⇒目下は軍事費が膨大で、文官への俸給無配が続くゆえ上海への避難も致し方なく、職場放棄も処罰なし     《QED》
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