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2015年02月17日

【知道中国 1183回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野10)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1183回】       十五・一・初九

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野10)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 「モシ一年モ滯留セバ」との願いが叶い日比野の上海滞在が長期に及び、あるいは多くの友人知己を得て、アジア蚕食の牙を磨ぐ「洋夷」に対抗すべく共同防衛戦線の構築に取り組んでいたとしたら、その後のアジアで欧米列強が野放図に振舞うことは、歴史に見られたほどには簡単ではなかったに違いない。だが日本は維新に向い、清国は崩壊への道を辿った。であればこそ、その後の日中の関係を考えるうえでも、文久2年の千歳丸一行による一瞬の上海体験が幕末日本にもたらした意味は、決して小さくはなかったと思う。

 日比野らの上海滞在も終わりに近づいた6月も末になると、太平天国軍の敗色は濃厚になる。壊走しつつ略奪を繰り返す姿を「ソノ暴ニクムベシ」とする。一方、清国軍は追撃態勢に移り、英仏両軍が加担するわけだが、「肩ニカケシ物ハ革ニテ、ソノ中ニ玉藥ヲイレ夜ハ棚中ニテ枕ニ用ユ。皆腰ニ一刀ヲオブ」英国軍兵士の姿から、「嗟、獸ヲ以テ獸ヲ驅ル。噫」と、太平天国軍と英仏軍双方を「獸」に譬える。清国の屋台骨を揺るがせ、奪い尽くそうという点からは、太平天国軍も英仏軍も同じ穴のムジナということだろう。

 当時、日比野も悩まされたコレラだが、その流行は猖獗を極めた。そこで問題になるのが、やはり夥しい数の死体処理である。日比野は、どこからか聞きつけて来て、「頃日瘟疫流行、死スル者カズナシ。屍ハ靜安寺ノ大路ニトゞム。盛暑ノ時ユエ醜氣甚ダシク傳染シヤスシ。故ニ屍ヲ積ミ火ヲ以テ焚化ス。蓋シ焚化ハ清國ノ風俗ニアラズ。死人多キ故ニ、ヤムヲエズ便ニ從ツテオコナフ。故ニ官吏ヨリキビシク禁ジ、焚化ノ聖ヘニソムクコトヲ示導セシヨシ。我國モ愚民ノトモガラ佛氏ニアザムカレ焚化ヲ行フ。實ニ悲歎スベキナリ」と綴る。

 当時、靜安寺は上海の西郊に位置していた。いわばコレラ犠牲者の夥しい数の死体を処理するためには郊外に運んで野積みにし、「焚化ス」る以外に他に便法はなかったはず。たとえ「聖ヘニソムクコト」があったにせよ、緊急事態であり、且つ環境衛生を考えれば「焚化」は早急に取り組むべき作業だろう。にもかかわらず「我國モ愚民ノトモガラ佛氏ニアザムカレ」などと綴っている点から判断して、日比野にとっては孔子以来の「聖ヘ」を尊びこそすれ、「佛氏」、つまり仏教は否定されてしかるべきものだったのだろう。

 帰国近くなっても、いや近くなったからだろうか。熱心に「市街を徘徊」する。ある時、「人アリ余ノ袖ヲヒク」。何奴かと思えば、「あなた国のヒト、上海、街知らないアルネ〜ッ。私、案内スルあるよ」。日比野は、その男に案内されるがままに「市街を徘徊」してみた。すると艶めかしい建物に。中を覗いてみた。「帷中ヲ窺フニ一美人鏡ニ對シテ粧フ」。そこで日比野は「コレ青樓ニアラズヤ」。すると「導者笑ツテ云フ、然リ」。どうやら親切ごかしの牛太郎だったようにも思える。そこで日比野はUターンだ。

 牛太郎に導かれての上海探索が続く。咽喉の渇きを覚えたので、桃を買ってくるように頼むと、「七ツニテ銅錢五十ナリ」。日比野が支払おうとすると、「姦商導者ノ求ムルニアラザルヲシリ、價ヲ變ジテ銅錢百ト云フ」。そこで日比野は「ソノ狡猾貪婪ナルヲニクミ桃ヲ投ジテ去ル」ことになるが、怒って桃を投げつけても仕方がない。おそらく桃を投げつけられた商人は、「あのヒト、オカシイあるのことね〜」とでも口にしただろうな。

 「蓋シ港邊ハ何國ニテモ貪婪ナルモ、洋夷ノ俗ニ化セラレシ故ニ、コノ甚ダシキニ至ナルベシ」と綴るが、客筋を見て客に判るように値段を変える阿漕な商売をする「姦商」は、「港邊」だからでも、「洋夷ノ俗ニ化セラレシ故」だから存在するわけではない。

 金持からカネをふんだくろうという商法を「狡猾貪婪」と憤る日比野は、やはり日本人。海を渡った異国でも一物一価が通用するという考えは、やはり捨て去るべきだ。《QED》

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2015年02月10日

【知道中国 1176回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野3)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1176回】        一四・十二・念七

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野3)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 下っ端役人とはいえ、卓上の残り物を掠め取ろうなどという振る舞いは、浅ましい限りである。「想フニ賊燹煽動、故ニ風俗ノ壞敗カクノゴトキカ。或ハ珍菓ニ心魂ヲ奪ハレシカ」。まあ個人も、集団も、民族も、国家も、貧すれば鈍し、鈍すれば貧するもの。矜持を忘れ、恥を棄て去れば・・・なんでもデキるのことアルヨ。周永康、令計画さんのコトアルねえ。

 役所の外に出ると、日本人の道台訪問の知らせを聞いたのか、「縱觀ノ者數萬人」。人垣の中を宿舎に戻った後、「徘徊」に出る。磁器店内に入って振り返ると、黒山の人だかり。店外に出ようにも出られない。そこで「鞭ヲ擧グレバ乍チ散ジ又アツマル。實ニ笑フベク厭フベシ」。なんとか「徘徊」してみるが、やはり「唐人馳セ來リ相圍ム。故ニ烟塵滿抹シ暑威ツヨシ」。顔を寄せられ、饐えたような体臭に取り囲まれ、臭い息を吹きかけられたらタマラナイ。そこで日比野は「扇ヲ以テ面ヲ掩フニ至ル」。嗚呼、タマリマセン。実に御免蒙りたい。

 夜、千歳丸に戻ると、通訳から「日本國ハ格別ノ國ニテ禮義ノ正シキヲ感ゼシヨシ」との道台の言葉を伝え聞く。道台が西洋人を持て成すことはなかったというから、日比野は「我國人ヲ甚ダ戀フ趣ナリ」と記している。口から出まかせ。彼ら得意の荒唐無稽な誉め言葉と用心に越したことはないが、先ずは素直に受け取っておくなら、日本からの武士の礼儀正しさが、道台をして「日本國ハ格別ノ國」と感嘆の声を挙げさせたに違いない。やはり相手が誰であれ、ふんぞり返ることも、依怙地に出ることも、高飛車に振舞うことも、媚び諂う必要もない。たとえ相手がブッチョウ面をしようが、目を逸らそうが、相手の目を正視し、自らの国家の利害得失を念頭に、正々堂々と渡り合えばいいだけである。

 いま、「中華民族の偉大な復興」やら「中国の夢」などといった誇大妄想を弄ぶ時代、我が日本には「子々孫々までに日中友好」などを口にする“絶滅危惧種”ならぬ“絶滅念願種”はいないと確信する。だが万に一つ、絶滅を免れ依然として生息していたとするなら、「贅肬録」の一節を書いた紙を丸めて煎じた熱湯を、頭からぶっかけてやれば、些かなりとも正気を取り戻すことに繋がるはず・・・はないな。

 閑話休題。

 峯も名倉も納富も揃って記す上海の水質の悪さに、日比野もまた言及する。何しろ上海には井戸が少なく、茶色く濁った黄浦の水を「礬石石膏ニテ清シ吃飲スル」というのだ。「已ニ晩飯ニ至リ、茶ヲ煎ジ飯ニソゝケバソノ色青緑實ニ食シガタシ」と。とてもではないが、如何に幕末勤王の士であれ耐えられるものではないだろう。

 水と同じように耐え難かったのが、キリスト教だった。

 じつは同じ宿舎に投宿していた「佛蘭西ノ耶蘇教ヲ傳フル僧」を目にした瞬間、日比野は「感慨勃々天ヲ仰イデ歎」ずる。太平天国にしても、漢族の王朝である明を再興しようというのではない。「唯邪教ヲ以テ愚民ヲ惑溺シ、遂ニ大亂ヲ醸シ災十省ニ及」んでいるほど。「然ルニ何ゾコレヲ禁」じないばかりか、「耶蘇ノ禁廢シテ上海ニ耶蘇堂三箇所」も建設させた。「蓋シ外ニハ洋夷ノ猖獗、内ニハ賊匪ノ煽亂アリテ災害並ビ至ル」。そのうえ、英国の軍事力に屈し、香港の割譲と上海以南沿海要衝の5港の開港を承知してしまった。かくて「嗟殷鑒トウカラズ」となる。

 日本にとっての悪しき見本は、いま目の前にあるではないか。国の護りも、財政も、ましてや先祖伝来の志操までも西欧に骨抜きにされ、いま亡国の淵に立つ清国は「近ク一水ノ外ニアリ」。まさに清国こそ幕末日本の「鑒」だ。このままの日本では、いずれ清国に続いて西欧のなすがままに陥ってしまう。「オソルベキナリ」。まこと恐るべきなり。《QED》
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2015年02月09日

【知道中国 1175回】 「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1175回】        一四・十二・念五

 ――「我國萬世一統。所以冠萬國也」(日比野2)
 「贅肬録」「没鼻筆語」(東方学術協会『文久二年上海日記』全国書房 昭和21年) 

 丁髷にせよ弁髪にせよ、相手には奇妙に見えたとしても、「實ニ風俗ノシカラシムルコト」であるからには「ソノ笑ヒイズレヲヨシト定メ難シ」と考える。これを今風に表現するなら文化の相対主義ということになるのだろうが、外見はともあれ内面、つまり人々の振る舞いから、日比野は「風俗ノ亂レタル一端ヲ知ルニ足ル」ことに気づく。

 中国式の木造小型船の「杉船」が沈没して船主が水中に落ちた時など5、6艘が救援に駆けつけるが、人命救助はそっちのけ。バラバラに壊れた船の板切れを我先に争って取り合う。日本人が誤ってタバコ袋を水中に落したら、「馳セ來リ奪ヒ去ル」。何とも浅ましい限りの振る舞いを見せる。「實ニニクムベキナリ」である。確かに洋の東西を問わず港街の気風は荒っぽく刹那的で、「至ツテ輕薄ナレドモ」、上海の場合は限度を超えているといったところだろうか。

 日本側は港湾内で利便を考え、小回りの利く小船を借用し、日の丸を掲げた。「午下上陸シ、顧看スレバ我國ノ日旗日ニ映ジ數千ノ蕃船ヲ輝射スルゴトシ」。振り返った日比野の目に映じた「我國ノ日旗」は西日を受けて翩翻として光り輝き、まるで数千の異国船を照射しているようだ。その時、いったい日比野は「我國ノ日旗」に如何なる感懐を抱いたのか。

 街を歩く。「土人」が十重二十重と取り囲み、日比野ら歩みに合わせ動き、一挙手一投足を注視する。店に入るわけにもいかず、ただ看板を眺めるしかない。不思議なことに「數千人相集リ相尾シテ余輩ヲ看ルニ婦女甚ダ少シ」。100人中に5,6人の割合で乞食女や5,6歳の少女がいるが、それでも女子は「男子ノ十分ノ一ナシ」である。まさか上海では女子が圧倒的に少ないわけはないだろう。その証拠に「樓上或ハ戸隙ヨリ反面ヲ出シ窺フ者アリ」なのだから。そこで日比野は考える。

 ――聖人は男女に別があることを教えている。女子は専ら家に在って家内を治めるべきものだ。ところが我が国では「惡風」があって、女子は「冠婚死葬ナドニ往來ス」。親戚だから仕方がないが、それ以外でも「妄リニ往來」している。やはり親戚の外は女子の往来は禁ずるべきだ。かくて「余清國亂ルトイへドモ、男女ノ別アルヲ甚ダ感ズ」となる。混乱しているとはいえ、清国が「男女ノ別」を守っている点に感心頻りである。

 新聞を読む。「賊」というから太平天国軍をさすのだろうが、その「賊」を避け、「老ヲタスケ幼ヲタヅサヘ」て多くの難民が上海に押し寄せる。逃避行道中の艱難は想像を絶するものがある。慌ててフランス軍が討伐に向かったが「賊」は消え失せていたので、引き返さざるをえなかった。そこで日比野は、何故に清国軍が討伐に出陣しないのかと「大イニ嘆息」し、「國内ノ賊ヲ外夷ニ探ラㇱムル、何ゾ失策ノ甚シキヤ」。なぜ自国内の「賊」の討伐を西洋人に委ねるのか。それだけではない。先頃は「奸商」が寧波辺りで「賊」に武器弾薬を売って大儲けしたというのだ。この情報を得た「西洋ノ兵」が探索に向い「奸商ノ船一艘」を確保し船内を捜索すると、大量の武器弾薬に加え2人の西洋人が発見された。そこで上海まで曳航し、英国領事館で尋問することになった。

 かくて「何故ニ清國ノ官吏イタリ訊究セザルヤ。嗚呼々々」と。自国内での外国人の逮捕・捜査権を行使できない。実質的に主権を奪われた清国を嘆く。今日の清国を、断じて明日の日本にすべからず。こう、日比野は決意しただろう。それから150余年後の沖縄は・・・。

 某日、幕府役人の従者として、オランダ人に先導され上海を司る道台の役所に向かった。例によって「市街甚ダ狹ク頗ル汚穢ナリ。左右縱觀ノ者堵ノゴトシ。指點シテ余輩ヲ笑フ」。道台では大歓待を受けたが、「酒後ニ至リ嘆息スルアリ」。片付け係の2,3人が残り物を「袂中ヘ(中略)竊入スル」のを見てしまった。またまた「嗚呼野ナル哉、卑ナル哉」。《QED》

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2015年01月31日

【知道中国 1165回】 「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉12)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1165回】           一四・十二・初五

 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉12)
 名倉予何人「支那見聞録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 「頑固ニ乄西虜ヲ悪ム」が余りに西洋を「厭フモノ」も困るが、やはり忌むべきは「本朝ニアリナカラ本朝ヲ尚フノ意モ無」い「西虜ヲ称誇」する輩だろう。名倉の時代から150年余が過ぎた現在では「西虜」に加え「米虜」「中虜」「露虜」「韓虜」などなど様々な「虜ヲ称誇」し得意然と糊口を鬻ぐ輩が後を絶たない。だが、この種の振る舞いの根底に、日本人が気づかぬままに刷り込まれてしまった屈辱的思考方法が潜んでいるはずだ。

 その「虜」について名倉が問うと、上海の西門守護役人の陳汝欽は「佛則模英則驕魯則泰ト云ヘリ」。そこで名倉は「是亦吾輩所見ト相符セリ」と。つまり名倉もまたフランス人は「模」、イギリス人は「驕」、ロシア人は「泰」と見做していたということになる。イギリス人は態度がでかく、ロシア人は物事に動じない。さてフランス人の「模」だが、極く普通に考えれば標準的で当たり障りがないとなるが、洞ヶ峠タイプとも考えられる。

 名倉は太平天国軍との戦いに臨んだ武将の話に耳を傾け、練兵場に足繁く通っては清国軍の操練からも何かを学び取ろうとする。

 「許多ノ戎行ヲ経歴シ来タル武功将軍(中略)等」の考えは、「実戦ニ臨テハ陣法隊名等ノヿハ論スル所ニ非ス只兵卒ノ先ス奪敗セサル者勝ヲ得ㇽナリ」と共通していた。だから過去の戦歴を考究し具体的に陣形を動かして実戦さながらの演習することはもちろんだが、やはり実戦と訓練は違う。「両陣會戦ノ際只虚々実々ヲ以テ勝敗ヲ決スト云ヘリ」。戦場での勝敗は、指揮官による用兵の巧拙・優劣にあるということだろう。

 混乱した戦場で隊伍を機能的に動かすにために日本でも「金鼓旌旗」が使われるが、清国軍の操練をみるに極めて簡素化されている。「実戦ニ馳シ用ユル真操ノヿナレバ如此簡易ニ乄形容ヲ粧ヒ飾ㇽ等ノヿナシ」。戦況が時々刻々と変化する戦場においては、命令伝達は簡単明瞭・緩急自在・周知徹底が肝要だ。ところが太平の世に慣れ実戦から遥か離れた日本における用兵法は巧緻を競う余り指揮官の意思が伝わり難く、兵卒を自在に動かせない。

 じつは名倉は「是マデ実戦ニ施ス所ノ真操ヲバ看タルヿナ」かった。彼が日本で学んだ兵法は精緻に過ぎる。だいいち兵卒だって覚えにくい。戦場で兵卒が動かなければ敗北は必至となる。「今本朝ノ操法ノ如クニテハ金鼓ノ約束歩法ノ疾舒亦甚タ六ケ敷乄無益ノヿニ工夫ヲ費ヤシ力ラヲ用ユルヿアリ又士卒モ学ヒ難ク覺ヘ易カラズ」。やはり「今本朝ノ操法」は実戦向きではなかった。「只甲越長沼流杯云ヘル兵法ノミ骨折テ金鼓ノ約束歩法ノ疾舒等マデ之ヲ善シト思」っていたが、清国軍の「操法ヲ看ルニ及ンテ大ニ発明セシヿアリ」と。やはり「本朝ノ操法」に革命を起こさなければダメだ。名倉は大いに悟る。

 上海の街を好んで「徘徊」した名倉である。やはり庶民生活への眼差しを忘れない。

 たとえば婦女子。女性は貴賤を問わず耳に穴をあけ金銀の環を掛けている。金持ちや身分のある大家の女性にとって外出は稀のことであり、外出の際には必ず輿に乗る。だから街を歩いているのは「賎女下婢等ノミ」だ。纏足に注目しては、「婦人ハ皆足ノ小ナルヲ尚フ故ニ婦人」の履く靴は「甚小ナリ」と。

 店先を覗く。店頭に肴は多いが生魚は甚だ少なく、あったとしても川魚の類である。店頭には必ず「真不二價」とか「実不二價」とか大きく掲げているが、なにを買うにも厄介なのは貨幣制度が複雑に過ぎることだ。あそこでもここでも関帝廟に出くわしたことから、上海のみならず「支那一同関羽ヲ尊崇スルヿ極メテ浅カラスト見ヘタリ」と。はたして名倉は、関羽が商売の神様であることを知らなかったらしい。

 鎖国最末期、名倉は混乱の上海で世界の現実を垣間見た。千歳丸帰国6年後の1868年、明治の御世が始まり、鎖国を解いた「本朝」は苦難と栄光の新しい時代に船出する。《QED》

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2015年01月24日

【知道中国 1158回】 「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉5)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1158回】           一四・十一・念一
 ――「入唐シ玉フハ室町氏以来希有ノヿ・・・豈一大愉快ナラスヤ」(名倉5)
 名倉予何人「海外日録」(『幕末明治中国見聞録集成』ゆまに書房 平成九年)

 初九日には宿舎の扉に縛られた「唐人罪人」を見て、「之ヲ縛スルニ亦辮ン髪ヲ以テス」と驚きを記す。午後は郊外を「徘徊」し農村の様子を観察するが、そこに集まる多くの難民や立派な門構えの邸宅でも屋敷内を田畑に設えるなど、「乱世ノ光景愍然ニ堪ユヘカラス」と。

 次いで「偶然王亘甫ノ家ニ至」り、偶々立ち寄った「目光炯々タル」「二品武功将軍侯小山」と意気投合し、「李撫軍ノ操練ヲ看」せてもらう約束を取り付けた。

 十一日、馴染みの陳と侯との筆談からの帰りに馬銓を見かけた。ちょうど正午だったこともあり、馬に御馳走になる。「銓余カ為ニ牛豚鶏肉等ノ盛饌ヲ設ケ此皆余カ口ニ適セサル処ナレトモ強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」った。淡白な味で育った日本人の名倉である。矢張り中国式の「牛豚鶏肉等ノ盛饌」には面食らい、箸の動きもぎこちなかったろう。「強テ箸ヲ下ㇱ且喰ヒ且語」の数語に名倉の苦衷が察せられ、何やら微笑ましくも思える。

 十二日、十三日と「獨行」による「徘徊」は続く。十三日には「支那官軍ノ創ヲ被ルモノ四人病院ニ入」ると聞き、太平天国軍が上海近くまで迫っていることを知る。十四日、十五日と「徘徊」が続き、十七日になって念願の操練視察が実現する。操練には余ほど興味があったと見えて詳細に記録した後、講評を綴っている。

 「余カ同来ノ人」は操練を見て、「之ヲ大ニ誹謗スルモノアリ是ハ全ク兵法ヲ夢見セルモノノ談ト云フヘシ」。以下、延々と「同来ノ人」の「誹謗」の根拠なき点を衝く。以下が名倉の主張である。

 ――だいたい今回の同行者の中でも「兵法ヲ熟知スル者多カラジ」。そのうえ我が国では長い泰平の世に馴れてしまい、兵法者といったところで実戦を経験していない。いわば井の中の蛙が偶々西洋の火器を手にし、日本の鋭い刀槍と西洋の火器さえあれば無敵だと思い込んでしまっている。こういった頭の固い人々から見れば「支那の操練」は「実ニ槍刀モ鈍ク火術モ拙キ故誹謗スル」ことになるだろう。だが、彼らは太平天国軍相手の実戦を積んでいる。その用兵の妙には感嘆せざるをえない。しかも連日斥候を遣って敵情を探っているではないか。こういったことは「本朝ニ在テ希有ノ事ナレハ能々眼ヲ注キ心ヲ潜メテ玩索スヘキニ非スヤ」。武士とはいえ実戦から離れて長いのだから、やはり実戦を重ねている軍隊の操練から何か学ぶべき点があるはず。虚心坦懐に「玩索スヘキ」だ。

 鴉片戦争以来、「洋虜」との戦争に負け続けているが、伝統的な「陣法兵制」を貫き「虜風」の真似をしてはいない。「世人ハ之ヲ」愚とも狂とも評すが、「余ハ之ヲ気節ヲ守リテ失ハサルモノト嘆賞スルナリ」。だから「支那ノ弱兵」が「旧来ノ拙キ火器ヲ用ユルタルモ」、西洋軍に勝利することだって考えられないことはないだろうに。

 「本朝ノ武勇タクマシキ兵」に西欧の近代兵器と海軍を備えることができたら、まさに「虎ニ翼ヲ添ユルモノ」で無敵であり、西欧軍など恐れるに足らない。だが、「陣法兵制マテモ西虜ニ倣傚スルハ気節ヲ失フ乄大ナルモノニ乄惑ヘルノ甚シキニ非スヤ」。つまり西欧軍を真似て「気節ヲ失」ってしまってはダメだ。

 中国軍は兵を動かし陣形を整えるのにカネや太鼓を使っているが、「凡ソ号令約束ハ本朝ノ操練ニ比スレハ甚タ簡易ナル様ニ覚ヘタリ是皆実地ヲ施コス処ノ真ノ操練ナレハ余レ敢テ之ヲ非トセサルナリ」。やはり実戦を踏んだ軍隊である。戦場での伝達方法は単純明快でなければならず、これこそ真の操練というものだろう――

 実戦は遥かな昔。長い泰平の世を謳歌し備えを怠りながら、「支那ノ弱兵」ぶりを「誹謗」することは愚な所業だ。名倉は自家中毒的思考を諌め自らを客観視すべし、と説く。《QED》

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