
【知道中国 1350回】 一六・一・仲一
――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田4)
K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
次いで「清人ノ風習」に筆を転じ、大きく南北の別があることを示した後、南方では広東人が最も「敏捷強悍」で昔から「外國ト交通セシヲ以テ外人ニ慣ヒ稍固陋ノ習氣ヲ脱セリ」。省都の広州は他の開港場に較べ英語を解する者が多く進取の気風に富み、「外ニ出テ營業ヲ爲ス者甚多ク遠ク郷土ヲ離ルヽヲ憚ラス他ノ各省繁盛ノ地廣人ノ來テ店ヲ開キ營業セサルハナシ」。言語も風習も大いに異なるところから、他地方の人々は広東人を「異類」、あるいは「外國人視スル」。「米國及ヒ南洋各地ニ在ル者幾十万其大半ハ廣東人ニシテ餘ハ福建?人又次ハ浙江ノ人ナリ」と説いている。
南方では長江中流域の湖南・湖北が「教化夙ニ開ケ人文極盛清國純粹ノ氣風」に富む。一般に北京・天津などの都市部を除けば北方人は「粗野ニシテ稍淳朴」で、体格は南方人と比較して「概シテ壮偉ナリ」と見做す。
このように地域によって差はあるが、全国で共通する点は人が多く、騒々しく、そして汚い。そこで「南北各地人民屯聚ノ處毎ニ途上雜?行人肩摩往々擁擠シテ行ク能ハサルニ至ル其人躁ニシテ靜ナラス亂雜ニシテ整潔ヲ務メス途上高聲喧呼笑罵紛爭日夜耳ニ絶ヘス街路湫隘ニシテ塵穢?集至ル處皆然ラサルハナシ殊ニ人ヲシテ不快ヲ覺ヘシム」とした。
それにしても、である。「高聲喧呼笑罵」「街路湫隘」「塵穢?集」と文字が並ぶと、否が応でも納得せざるを得ないから不思議だ。
男女の別、纏足、河川に関する記述が続に続き、「清人一般ニ風水ノ説(地相ヲ見テ吉凶ヲ説クヲ云フ)ヲ貴ヒ」とし、墓地については「死者ヲ葬ルニ墓地ノ吉凶ニヨリ其家ニ禍福アリト稱シ豪富ノ家ハ多金ヲ費シテ墓地ヲ營シ或ハ善地ヲ得サルカ爲ニ死者數十年葬ル能ハサル者アルニ至ル其墓地一定ノ所ナク到ル處原野ニ?々相連リ麥隴圃ノ間ニ散布ス故ニ政府鐵道運渠等ノ如キ大工事ヲ起スニ當テ若シ豪家右族ノ墳墓ノ地ニ及フアラハ必ス多少ノ紛議ヲ免レサルへシト云フ」と綴る。
ここに「數十年葬ル能ハサル者」と記されている風習、つまり棺を野晒のまま放置しておく風習を「停棺不葬」と呼び、長江下流域一帯で日常茶飯に行われていたようだ。たとえば黒田の旅行から数年後の清・光緒17(1891)年に江南地方一帯を管轄する江蘇布政使が、「江蘇の都市と農村では停棺不葬が行われている。――すでに夏になり、烈日炎天の陽気であり、蒸し返された臭気で疫病が容易に発生する。直ちに一斉に埋葬せよ」と布告しているほど。この布告に、どれほどの効力があったのか。おそらく全くといっていいほどに役には立たなかっただろう。それというのも江蘇布政使が出す一片の布告なんぞにご利益はない。「善地」こそが「其家ニ禍福」をもたらしてくれると固く信じ込んでいるからだ。
「鐵道運渠等ノ如キ大工事」、つまり政府が進めようとしているインフラ工事が「豪家右族ノ墳墓ノ地」に掛かろうものなら、「多少ノ紛紛議ヲ免レサルへシ」とある。だが、これは19世紀末の文明未開時の“蛮行”ではない。じつは現在の中国で墓地管理を定めた殯儀管理条例を読むと、「一、耕地・林地。二、都市の公園、景勝地、遺跡文物保護区。三、ダム、河川の堤防付近、水源保護区。四、鉄道と幹線道路の両脇」での墓地造営は禁止されている。つまり現在でも、基本的には「墓地一定ノ所ナク到ル處原野ニ?々相連リ麥隴圃ノ間ニ散布」していることになる。牢固として確固たる伝統至上主義・・・嗚呼。
ここで参考までに、現代において「麥隴圃ノ間ニ散布」された墓地が農業生産に与える影響の1、2例を挙げておくと、ある報告によれば80年代末期の安徽省では2500万基の墓によって13万トンに及ぶ食糧生産能力を持つ土地が奪われ、90年代半ばの福建省では47万基もの墓地が濫造されてしまったとか。いやはや徹頭徹尾・・・トホホです。《QED》