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2016年02月10日

【知道中国 1348回】 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田2)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1348回】           一六・一・初七

 ――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田2)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)
 
 「總叙」はヨーロッパ勢力の「亞細亞東部」に対する「遠畧」から説き起こし、イギリスはシンガポールを占有した後、植民地とした香港に東洋のジブラルタルの役割を担わせた。フランスは安南を押さえ、ロシアは北方からの侵攻を逞しくするばかり。かくして「清國ノ歐州諸國ノ侵侮ニ逢フハ東洋ノ不幸ニシテ我邦ニ於テ豈ニ對岸ノ火ヲ觀ルカ如キノ想ヲナス可ンヤ」。加えるに「英國カ俄然朝鮮ノ巨文島ヲ?領シタルハ我邦ト清國ニトリテハ所謂臥榻ノ傍他人ノ鼾睡ヲ容ルノ形状ヲ爲スニ至レリ」

 東洋に対する「歐州諸國ノ侵侮」は日に日に急。イギリスの巨文島占領に見られるまでもなく、日清両国は惰眠を貪ってはいられない。累卵の危機に直面しつつあるのだから。

 加えるに「各外國ハ東洋ノ一事件アル毎ニ一層ノ權力ヲ加へ清國ハ之ニ反シ必ス幾許ノ損害ヲ來シ貿易ノ利ハ悉ク歐米人ノ占ムル所トナリ其ノ其版圖廣大ニシテ物産浩多ナルモ自國ノ富強ニ補ナクシテ却テ他人ノ利ニ歸スルハ豈ニ憫ムヘキノ至リナラスヤ」。つまり、西欧列強はことある毎に清国に圧力を掛けるゆえに、清国の「貿易ノ利ハ悉ク歐米人ノ占ムル所」となってしまう。計り知れない経済的可能性を秘めながら、それを自国の富強に生かせない清国は、面映ゆくもあり憐れなことである。

 一方、清国まで「數千里ノ波濤ヲ越ヘテ來航」しなければならない西欧列強が清国の通商を押さえているのに対し、わが国は隣国であるにもかかわらず、「貿易來往ノ寥々タルハ」いったいどうしたことだ。

 東アジアを俯瞰した時、「朝鮮安南ハ共ニ論スルニ足」りない。やはり「我邦ト清國トノミ各益々獨立ノ基ヲ固フシテ東洋大勢ヲ維持ス可キナリ」。だが我が国の清国に対する態度は、「歐米諸國ノ鷹揚虎視其權力ヲ逞フスル」と同じであってはならない。通商関係もまた同じだ。

 明治維新以来、欧米各国に対しては使節、官吏、留学生などを盛んに派遣し、「其ノ學問ニ通シ其言語ニ達スル者」が続々と生まれている。だが「清國ノ事ニ至リテハ獨リ之ヲ度外ニ置ク者ノ如シ」。過去には「我國ノ制度文物」は中国に学んだが、維新以来の進歩によって「我國進化ノ度」において清国に先んじた。そこで「彼ヲ視ル頗ル蔑如スル所」となってしまった。そのうえ「世ノ所謂漢學家ナル者ハ殆ト一種ノ專門學トナリ彼ノ今日ノ事情ハ更ニ之ヲ研究スルヲ務メス」。ということは、中国の同時代の動きを的確に分析・把握するうえでは、当時も「世ノ所謂漢學家ナル者」は余り役には立たなかったわけだ。

 さらに紛争のタネとして台湾事件、琉球処分、朝鮮での事件も発生したことから、両国関係は極めて疎遠になってしまった。だが、天津条約が結ばれて以後。「頗ル兩國ノ情意貫通スルヲ覺ヘ」たうえに、一般国民も清国との貿易が利益を生むことを知った。この機を逃さず、政府は諸方策を果断に行うべきだ。

 欧米諸国に倣って清国との貿易を盛んにしようとするなら、「獨リ其文字ニ通スル者ニ止」まる「我邦ノ漢學ナル者」は訳に立たないので、「現今ノ事情ヲ研究」する大前提として語学の習得が肝心であり、やはり中国語に堪能な人材をより多く育てることが必要である。黒田は中国における方言にも着目し、中国事情を理解し貿易を活発化させるためには官話に加え広東語・福建語・ィ波語・上海語などそれぞれを「專習セシムへシ」とした。

 黒田が官話に加えこれら方言を挙げたわけは、官話は全国各地の役人との交渉に、広東語・福建語・ィ波語・上海語は南方沿海部主要港湾都市で取引交渉をする際に、どうしても必要だからであろう。

 以上が「清國ノ情況ヲ叙述スル前ニ於テ先ツ一言セサルヲ得サル所以」である。《QED》
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2016年02月09日

【知道中国 1347回】 「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田1)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1347回】           一六・一・初五

――「街路湫隘ニシテ塵穢坌集到ル處皆然ラサルハナシ」(黒田1)
 K田清隆『漫游見聞録』(明治十八年)

 岡の香港滞在末期、従者を引き連れて香港に現れたK田清隆(天保11=1840年〜明治33=1900年)に就いては多くを記す必要はないだろう。暗殺された大久保利通の後を受け、明治政府部内で薩摩藩出身者の重鎮に。明治21(1888年)に内閣総理大臣。在任中に大日本帝国憲法発布。翌年に辞任し元老となり枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任。伯爵で従一位大勲位。まさに位階勲等を上り詰めた元薩摩藩士。北海道開拓使官営事業廃止に伴う「開拓使官物払い下げ事件」がキッカケとなった「明治14年の政変」を遠因とし開拓長官から内閣顧問の閑職へ。香港登場は、その直後の事である。

 これから読み進もうとする「奥付」の見当たらない上下2冊本の『漫游見聞録』の「緒言」は、こう書き出されている。

 「今般游歷ノ地ハ香港ニ始マリ次ニ廣東澳門ヨリ南ハ西貢新嘉坡ニ及ヒ中間福州澎湖島台灣淡水鷄籠北ハ天津北京及ヒ張家口西ハ揚子江ヲ沂リ漢口を經テ宜昌ニ至リ往來里程凡一萬二千二百三十七英里日タル百八十五日其間見聞事状ヲ彙シテ此編ヲ輯ス行路匆々ノ採訪ニ係リ誤謬ナキヲ保セス觀者幸ニ是正ヲ賜ハヽ幸甚」

 内閣顧問の閑職とはいえ、旅行の数年後には内閣総理大臣に就き、それからまた数年を経て日清戦争勃発である。その黒田が、前後185日もの長期間、日本が仮想敵国として見定めるようになったであろう清国政治経済の心臓部を歩くだけでなく、西貢(サイゴン)、新嘉坡(シンガポール)とフランスに加えイギリスが東洋に築いたもう1つの植民地まで足を延ばそうとういうのだから、単なる鬱屈した精神を癒すための物見遊山であろうはずがない。やはり兵要地誌作りであり、清国の継戦能力調査であり、フランス、イギリスの極東政策探査と見た方が当を得ているのではないか。

 黒田は続けて、「游歷ノ地滯留ニ久暫アリ見ル所ニ踈密アリ聞ク所ニ詳略アリ故ニ記スル所前後繁簡齊シカラサルヲ免レスト雖モ強テ搆クヲ爲シ体裁ヲ一ニスルヲ求メス實ニ從フナリ
 見聞ノ事苟モ他日ノ參考ニ供スヘキ者ハ悉ク記載シテ其繁蕪ヲ厭ハスト雖モ既ニ世人ノ耳目ニ熟シタル事項ハ或ハ又省畧ニ從フ」と。

「緒言」の最後を「明治十八年十一月      黒田清隆記」と結び、一見すると私人としての黒田が見たまま、聞いたまま、感じたままを、ありのままに記した。後日の参考になると思えることは書き留めたが、一般常識となっているようなことは省略した、ということになっている。だが、「総叙」からはじまり「政体」「風俗」「度量衡及貨幣」「關税」「船舶」「貿易」「兵事」続き、さらに広東、福州、澎湖島、淡水、鷄籠、鎭海、上海、芝罘、天津、北京、張家口、漢口、鎭江、蕪湖、九江、宜昌、福州、淡水、廣東、香港、澳門、西貢、新嘉坡と続く目次を目にしただけでも、この旅の目的が黒田が岡の使いの者に語った「日來鬱病にして、旬月の暇を請い、域外の游を擧ぐ」といった類の暢気なものでないことくらいは判ろうというもの。

目次に見える上海の項を一例にすれば、「居留地裁判所及地方公會」「上海自來水局」「江南機器製造局」「上海機器製造局」「上海縣地方地税」「上海開市以來商業ノ沿革」「商戸ノ概況」「賣買取引」「商業ノ習慣」「商線幷輸出入物貨ノ景況」「上海港輸出入品價額總計表」「輸出品目」「輸入外國品目」「十萬兩以上輸出品目幷解説」「十萬兩以上輸入品目幷解説」「上海輸入日本物産表幷解説」「我邦物産ノ現況及将來ノ意見」と、客観的統計を示しながら経済の牽引車である上海の都市としての解剖を試みようとしているのである。やはり経済力の分析を通して清国の総合的国力を探ろうとしていると判断すべきだろう。《QED》

posted by 渡邊 at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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