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2016年01月16日

【知道中国 1342回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1342回】          一五・十二・念九
 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛??」(岡83)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 病状好転の数日を過ごした後、19日には「夜來盗汗淋漓。大覺疲勞」と綴る。体調は再び悪化した。そんな中でも、日中関係への関心を綴る。

 ――新聞が伝えるところでは、李鴻章が清朝帝室を支える醇親王と日本事情に詳しい「巴亞克氏」を天津に招き、朝鮮問題解決に向け全権大使に対し両国は共に撤兵し、「韓土」が自ら憲兵を置いて外国人を守り、日本人殺害犯を罰するなどの数件を訓令したとのことだが、これらの措置は「中日情理」に適っているので、「兩國の和」を害することはないだろう。(3月19日)――

 ――ロシアとイギリスが朝鮮東南200里の貴弼島を奪い、ここを東洋艦隊の本拠地にすべく虎視眈々と狙っていると、新聞が報じている。「東洋諸國は氣候温和にして土性は肥沃。而るに武備を忽かにして卑陋(こころせまい)」。まったく虎の皮を纏った羊のようなもので空威張りの世間知らずだ。「中日の門戸」である安南と朝鮮が破られた以上、その累が「堂奥(にっちゅうりょうこく)」に及ばないわけがないだろう。噫。(3月20日)――

 朝鮮問題はなによりも「韓土」の王朝政権の優柔不断な振る舞いが原因であり、であればこそ問題解決の第一義的責任は「韓土」にある。日清両国が直接対決する愚は避け、それより「中日の門戸」である安南と朝鮮がフランス、ロシア、イギリスに破られていることに鋭意備えるべきだ。これが岡の考えだろう。だが、その後の日清戦争への道筋を振り返るに、岡の説く「中日情理」が一致することはなかった。

それにしても朝鮮半島を挟んだ日中双方の利害得失が一致することは岡の時代も、それ以後現在に至るまでも、いや恐らく今後もありえないはずだ。隣人であれ隣国であれ、厄介極まりない存在に如何に対応すべきか。頭を悩まし備えなければならないことは、古今東西・未来永劫に変わらないことだろう。「友好」の2文字は・・・有効ではアリマセン。

 21日は「連夜盗汗。氣力頓減」、22日は「心神不快。至夜盗汗」、23日は「全身疲勞。不欲飲食」と体調不良を訴える記述が続く。暗い顔をしながらイギリス人主治医は「このところの気候激変が病気を再発させた。病気というものは再発した場合、薬では治癒し難い」。「瞿然(おどろきおそれ)」る岡に向って下した診断は「日東風氣(にほんのきこう)は、人體に適す。宜しく稍や復するを待ち直航東歸(きこく)し湯藥(りょうよう)に從事すべし」。長旅を切り上げる時期か。かくて岡は帰国を家族や上海の友人に知らせる。

 22日、香港滞在中の黒田清隆が書記官2人を伴って広東に向った。するとさっそく中国人の友人がやって来て、「あれほどの政府高官が理由なく外遊をするわけはないだろう」と黒田来訪の目的を問い質す。そこで岡は率直に、

 ――黒田公は病気がちであり、「中土」に遊んで気分転換を図ろうというのだ。あなたは政府高官の外遊を疑われるが、欧米の高官や名士は続々と我が国を訪れている。イギリスやプロシャの王子も訪日をされているし、貴国の大臣もまた春秋の休暇を利用して日本に遊び、異国の風情を楽しんでいるではないか。(3月22日)――

 ここまでいうと友人は口を噤んでしまった。岡は友人の疑問を軽く躱したものの、「伊藤西郷兩大臣、使命を銜(ほう)じ北京に在り。而して(黒田)顧問二三の僚佐と此の游を擧ぐ。宜しく其れ中人の疑訝を速やかにする也」と記すことを忘れなかった。

やはり明治政府の柱ともいえる伊藤、西郷、黒田の3重臣が、しかも微妙な時期に同時に中国に滞在するのである。なにか魂胆がある。やはり岡の友人が「疑訝」を抱いたとしても不思議ではない。おそらく彼の疑問は、両国関係の推移に関心を持つ「中人」の多くが共通して抱いたに違いない。日清戦争の回帰不能点まで・・・残すところ僅か。《QED》

posted by 渡邊 at 08:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2016年01月13日

【知道中国 1341回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡82)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1341回】        一五・十二・念六
      
「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡82)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 纏足の老婆を実際に目にしたのは、これまた香港時代。香港島の裏町だった。古本屋からの帰りだったように記憶しているが、前を上品な身なりの婆さんがよちよち歩いている。足元を見るとやけに小さい。こんなところで纏足そのものに出会えるとはと、胸の高鳴りを覚えたものだ。表現が大袈裟すぎるだろうが。婆さんの後ろを歩いて行くと、細い路地に折れ、その先の古びた店に入った。纏足専門の靴屋である。店内まで入る勇気は持ち合わせていなかったが、通りに面したガラス・ケースの中には紛れもなくシャレで小奇麗な刺繍が施された纏足用の小さな靴が陳列されていた。

 あれから大分月日が過ぎた。香港に行く際に暇を見つけては記憶を辿って香港島の裏町を歩くが、纏足用の靴屋などサッパリ見かけない。おそらく年齢からして、香港の纏足世代は既に鬼籍に入ったに違いない。ということは、この地上から纏足などと言う「おかしかりき」「頑迷な陋習」は消え去ったと思いきや、なんと中国国内には残っているらしい。それというのも5,6年前、確か雲南省の山村だったと記憶するが、その村の住人、といっても老婆たちだが、彼女らの纏足姿の写真集を手にしたことがあるからだ。

 老婆らの多くは年齢から判断して建国前後の生まれと見たが、かりにそうだとするなら、毛沢東の絶対権力の下で社会主義建設が進められていた(と大いに喧伝されていた)時代にあっても、「おかしかりき」「頑迷な陋習」は温存されていたことになる。イイカゲンと驚嘆すべきか。テキトウに過ぎると呆れ返るべきか。牢固として伝統を守ろうとする見上げた根性と困惑すべきか。いずれにせよ「莫明其妙(なにがなんだかサッパリわかりません)」。かくて中国という2文字を因数分解するなら莫明其妙となる、わけです!?

18日は「中俗無謂者甚多」で書き出されている。

  ――「中俗」には「無謂者(むいみなもの)」が甚だ多い。名前についていうなら、生まれた時に両親がつけるのが「幼名」。塾に入ると師長(せんせい)が名づけるのが「書名」。科挙試験の第一関門である郷試に受かって後は友人の間では「試名」を呼び合う。「庠舎(がっこう)」に遊学すれば同窓は「庠名」を名乗り、上級の科挙に受かれば「傍名」を名乗って朋友と交わる。最上級の科挙である朝試合格の場合は「甲名」で告知され、官職に就いたら「印名」を名乗る。

誰でも幼名や書名で呼んでいいが、成長した後に付けた名前は「君父師長」でなければ呼ぶことは出来ない。妻を娶り一家を構えたら、父や兄、それに伯父と叔父は字で呼ぶ。それも友人付合いや一族兄弟の間では口にできるが、名刺や書簡に署名する際には使えない。字に別字、号に別号があるが、他人は呼べるが自分で名乗ることも名刺に記すことも出来ない。全く混乱するばかり。友人同士では字ではなく名を呼び合う。だが名刺や書簡に署名する場合は、名ではなく字か号を使う。号なのか別号なのか、字なのか別字なのか。なにがなんだか定まった呼び名がみられない。

であればこそ、公文書・私文書に関わらず「一つの實名」を使う至便このうえない我が国に、中国が敵うわけがない。(3月18日)――

 以上を4文字で言い現せば繁文縟礼ということだろうが、岡の「中俗無謂者甚多」という主張は十二分に納得できる。一生のうちに、かくも多くの名前で呼び合うマトモな理由があろうとは、とても思えない。纏足にしてもそうだが、なぜ、かくも複雑怪奇な習俗が生まれ、受け継がれてきたのか。伝統だからというだけでは、神州高潔の民の末裔としては、どうにも理解に苦しむ。

 やはり中国=莫明其妙×繁文縟礼×虚礼粉飾×夜郎自大×猪突爆走・・・です。《QED》
posted by 渡邊 at 00:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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