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2016年01月11日

【知道中国 1340回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡81)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1340回】          一五・十二・念五

 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡81)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)

 17、18日の両日は「中土風俗」について自らの体験を踏まえ綴っている。
 ――「中土の風俗」は南北で違っている。北の原野を旅する際は騾驢(ラバ)を、南方の水郷を進むには小舟を使う。北方の「小民(くさたみ)」は田畑を耕す傍らで牧畜に勤しみ、「淳樸勤倹(きまじめじっちょく)」の「古風」を残している。これに対し南方の「小民」は多く生活の糧を「舟楫(ふね)」に求め、婦女も男子と同じく肉体労働を厭わない。「中人」でアメリカや南洋の各港湾都市に住む者が何十万を数えるかは不明だが、その半数は広東人である。

 「中民」は殊に結婚式と葬式を重んじ、全財産を擲ってでも盛大に行おうとするが、全く以て無意味に過ぎる。男女の間は厳しく隔てられ、良家の婦女は屋敷の奥まった部屋から出ることは許されず、血縁以外との交際は禁じられ、他人と顔を合わせることがない。外出時には窓が塞がれた轎を使い、往来から他人に顔を覗かれないようにする。街路を歩いている女性がいたら、「小民婦女」でなかったら「良家」の「婢妾(かこわれもの)」だ。

 足の小さい婦女が貴ばれ、5,6歳になったら足を固く縛り上げる。その痛さに血の涙を流すそうだが、それでも縛り続ける。いちばん小さい足は「三四寸」で、歩く時には両脇から支えられなければならない。とはいうものの北方では必ずしもそうというわけではなく、清朝守備兵である八旗の婦女は纏足などしない。

 河北省がイチバン穢く不潔このうえないが、こういった様子は南下するに従って薄れ、広東になると立ち居振る舞いや言葉遣いは頑迷な陋習を脱している。(3月17日)――

 中国と中国人に対する岡の考えに“我が意を得たり”と思うことは屡々だったが、「広東になると立ち居振る舞いや言葉遣いは頑迷な陋習を脱している」の部分だけは、どうにも納得がいかない。それというのも香港留学以来、広東語との付き合いを半世紀近く続けているが、どう贔屓目に見ても広東人の「言葉遣いは頑迷な陋習を脱している」とは思えないからだ。広東語で書かれた文学には古来、ロクなものはない。だいたい広東語文学と呼べる作品にお目にかかったことがない。優れた文学は優れた言葉から生み出されるものだろう。文学が言葉の芸術である以上、ロクな文学を生み出し得ない言葉は言葉としては劣っているのではないか。広東語は依然として「頑迷な陋習を脱してい」ないのだ。

 ところで纏足について思い当るのは、村の牛飼いの悪ガキと街の可愛い少女の出会いを描く京劇の『小放牛』だ。牛飼いが少女の足を指して「こんなにも、こんなにも、マントウのようにデカい」と揶揄う場面があるが、往時の中国では美人の条件は足が小さいこと。「あんたの足は、まるで小舟のようだ」とは、女性に対する最上級の侮蔑だったらしい。

 一方、「明治三十六年十一月二十二日、空は隈なく晴れて、塵ばかりの雲もなきに、かしま立ちする心も勇みぬ」の一文を綴り上海を離れ、塘古、北京を経て蒙古少女教育のために最終目的地カラチンへと旅立っていった河原操子の『カラチン王妃と私』(芙蓉書房 昭和44年)には、こんな体験が記されている。

「純然たる女子教育の目的を以って設立せられ、東洋人の手で経営」される清国最初の女学校である上海務本女学堂に奉職した彼女は、「休憩時間には、我は率先して運動場に出で、生徒をしてなるべく活発に運動せしむる様に努めた」が、「多年の因襲の結果としての」纏足から「思うままに運動する能わざるは気の毒なりき」。よろよろと歩かざるをえない教え子らは、「されば大なる我が足、といいても普通なるが、彼等には羨望の目標となりしもおかしかりき」。

とはいえ「おかしかりき」「頑迷な陋習」は、纏足だけには止まらないのだ。《QED》
posted by 渡邊 at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国

2016年01月10日

【知道中国 1339回】 「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡80)

<樋泉克夫愛知大学教授コラム>
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【知道中国 1339回】          一五・十二・廿
     
 ――――「市店雜踏、穢臭衝鼻、覺頭痛涔涔」(岡80)
 岡千仞『觀光紀游』(岡千仞 明治二十五年)
 
 漢族にとって学問とは政治そのものであった。であればこそ少数の満州族で圧倒的多数の漢族を支配することとなった清朝(=満州)は、漢族知識層に学問の自由を許さなかった。かくて彼らは「經疏(じゅきょうこてん)を穿鑿し謬異を講究す」ることに学問の道を求めることとなった。清朝考証学のはじまりである。古くから伝わる古典を総攬し、1文字1文字の典拠と正しさを「穿鑿」し、その「謬異」を論じ尽くし、儒教古典の原初の形を究めようとしたのだ。その代表が明末清初に活躍した顧炎武(1613年〜1682年)であり清朝盛時の銭大マ(1728年〜1804年)だった。

 岡は続ける。

 ――顧炎武が興し、銭大マが引き継いだ清代考証学は新奇を衒うばかりであり、「紛亂拉雜(でたらめさ)」という観点に立てば、宋代儒学の百倍も無益というしかない。若くして才気ある者は「詩文書畫」によって名声を博し、かくてカネ儲けに奔ることとなる。無益無用のものを弄び、心を失い、心身の豊かを忘れるばかりだ。「風雲月露」を話題にはするが、口先だけ。その振る舞いは、晋代(265年〜420年)に利害打算が渦巻く現世を捨てて竹林に遊び人生を尽蕩した七賢人とは違いすぎる。

 役人から使用人まで下々のヤツらは慇懃無礼に立ち居振る舞い、己を欺いて人を売ることを専らとしている。商人や職人は学問はないものの、身なりを整えては扱う品物の値段を釣り上げ、粗製乱造した半端モノを売りつけては人の財産を騙し取ろうとする。だが、この程度ならまだ許せるかもしれない。最低は犬やら鼠と同類で、コイツらは法や刑罰の何たるかも弁えず、他人の家の門口に立っては憐れみを請い、「穢汚」ということすら知らないほどに汚い。

 彼らの人となりは「輕躁(おっちょこちょい)」で「擾雜(わずらわし)」く、「喧呼(さわがし)」く、そのうえ「笑罵(けたたましい)」。それというのも「風俗(ひびのいとなみ)」は「頽廢(デタラメ)」で、「教化(きょういく)」は行われず、「政教(まつりごととおしえ)」は跡形もなく消え去ってしまったからだ。無秩序の極致と言うものだろう。にもかかわらず外国人を「侮蔑(ばかにし)」て、「頑見(おろかなかんがえ)」を言い張り、傲然として自らを「禮儀大邦(れいぎのたいこく)」と己惚れる。この国を、欧米人が「未開國」と見做すのも、それなりの理由があるのだ。(3月16日)――

 最終部分の原文は、「其人輕躁擾雜。喧呼笑罵。此皆由風俗頽廢。教化不行者。嗚呼。政教掃地。一到此極。而侮蔑外人。主張頑見。傲然以禮儀大邦。自居。歐米人之以未開國目之。抑亦有故也」。漢字の字面を追ってみるだけでも、岡が伝えたかったことが手に取るように判るだろう。

翻って現在の中国と中国人を考えるに、上は共産党最上層の醜く露骨な権力闘争から、下は俄か成金たちの海外旅行や爆買いまでを言い現そうとすれば、やはり先ず頭に浮かぶのは「輕躁擾雜」「喧呼笑罵」「風俗頽廢」「教化不行」「政教掃地」「侮蔑外人」「主張頑見」などの4文字の組み合わせ。ということは岡の時代から現在まで130年余は過ぎているはずだが、中国人の性格は一向に変わってはいないということになる。やはり万古不易で「輕躁擾雜」、一貫不惑で「主張頑見」・・・いやはやタマリマセン。

 これを簡単明瞭に言い換えるなら、やはり「未開國」というべきか。「未開國」は「未開國」のままでもいいのだが、困ったことに現在の「未開國」は岡の時代と違って莫大なカネとあらぬ自信(正確に表現するなら「過信」であり「己惚れ」)を持ってしまった。俗にキチガイに刃物というが、まさに「未開國」にアブク銭ではなかろうか。《QED》
posted by 渡邊 at 08:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 知道中国
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